2007年11月03日

またお休み

またお休みすることにします。今度はいくつかの理由があるでしょうが、簡単にいうならば、ここでの「広がり方」が何か自分自身の現在の感覚とは違ってきているからです。つまり従来のわたしが「より開こう」としているとすれば、現在のわたしは、あまり「開こう」とするのではなく、むしろ「より閉じよう」としています。

その「開」にも「閉」にもそれぞれ良し悪しや問題があります。そのあたり、ベルグソンも丸山も開・閉を語っていますが、それは近代化に向けられたもので、あたってもいれば違ってもいるようです。そもそも倫理的には、そこに人生の流れを、また人称関係の様相を、自他のあり方の基本を、それらの有限と無限を、さらにより見出すべきです。

現在のわたしは、「より閉じる」方向をもちます。あるいはこことは違った形で「開こうと」する気持ももちます。で、もしもこのあたりに、異論があったり、さらに何か関係があるべきだと思われるならば、どうぞご連絡ください。少しづつ個々に目的に向けて――glocal ethicsとして――話し合い、問いをより開きたいと思います。  
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2007年05月12日

少しお休み

この表現を少しお休みすることにします。なぜか。それは表現できないからです。うまくとか上手にとかその逆にとかいうことではなく、そのことがあるにしても、どうも表現したくないか/あるいはできないのです。

そうする理由はなにか。自分自身の内部の、というか、外部であっても、どこか他者とわかりあえるものであっても、ともかく容易に表現できないし、する気持にやはりなれないから。

表現しないとは何なのか。自分自身わかっているのか。絶望なのか失敗なのかいい加減なのか我儘なのか。どうであっても、ぼくはどこかいつも表現をしながら生きている。けれども表現できないものがとにかくここにある。それをどうとらえていいか。どう感じ考えたらいいのか。

新井奥邃という人は、少しは表現したが、結局それを使わなかったそうだ。彼は表現を燃やしたのか。そうではないのか。ともあれ、燃やす気持ちはあったのだろう。ぼくはまだ燃やしてはいない。が、ややそういう気持がして来た。

翻ってみると、表現するとはどういうことか。表現しないとはどういうことか。結局それは、自己自身、他者自身に関わっており、その自身の在り方から、そこでの出来事から、表現のする・しない、できる・できない、が生じているのだろう。だとすると、その問題はどうも奥の方にある。そして表現はしばしばすべきである。また何かすべきでない。

最近読んだジャーシルドという人の『自己を見つめる』という本があった。ずいぶん昔の本であるのに、感心することが多かった。彼は最後のところで、「共感」ということと「自己」ということをいっている。もう誰も彼のことを知らないだろう。1902年生まれとのこと。もう少し示唆されるところを見て感じ考えて行きたいと思った。

彼は科学者に近い人だ。が、にもかかわらず、あるいはだからこそ、最後のところで不思議なことを言っている。そこで彼がふれている世界は、とても孤独なにもかかわらずどこか華厳のような、パスカルが神学でみたようなものに繋がるようにもぼくには思えた。ティヤールにも、土居にも、その世界とその表裏への出会いがあったようだ。

ジャーシルドは子供の教育を基本的なテーマとした人らしい。ただ、現在は子供だけでない。大人自体、おかしなテレビやゲームによってまたインターネットによって会合によって、肯定するにせよ否定するにせよ、動かされ続けている。どこに本当の自己が人があり共感があり戦いがあり、そもそも存在があるのだろうか。そもそもどこに「表現」があるのだろうか。別にそれでもいいが、そもそもどこに私・私たちという父母の「子ども」がいるのだろうか。そのことをむしろ知りたい。
  
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2004年11月16日

ブッシュかケリーか(追記)

「ブッシュ再選と世界―識者に聞く」の中で、前米国駐日大使柳井俊二氏も心配しているようだ。
 「・・・欧州が互いに譲り合いながら統合を進める中で、米国と異なった世界観
を抱くようになっている。国々が協力し合えば問題は解決できるという考えだ。
一方米国は、世界はなお危険で敵意に満ちた場所だという見方を変えていな
い。・・・欧州はより世俗的になり、人種的にも多様化しつつあるのに対して、米
国は従来に比べて政治の場で信心深さが語られ聖書が引用されるなど保守化し
ている。・・・宗教的な言葉が政治の世界に入り込む米国の傾向は、イスラムを除
くと、世界ではあまり見られない現象だ。・・・(今度の選挙では)不思議な事が
起きた。小さな町に住む勤労者層が富裕層の利益を代表する共和党政権を支持
し、大都会の富裕層の方が現政権を批判してケリー氏に投票したのだ。・・・危険
なのは、内陸部対東西沿岸部とか、大都市住民対小さな町の住民という対立概
念が固定化してしまうことだ。民主党は内陸部を諦めてはいけない。米国が内
陸部と沿岸部で対立するようになることは、戦争に繋がった十九世紀の南北対
立とほとんど同様に危険なことだ。・・・」
 
  
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2004年11月03日

ブッシュかケリーか

ブッシュかケリーか、開票が進められていて、いま(14:50JST)ブッシュ優勢だが(CNNで246:195、Yahooで246:216)、どうなるだろうか。あと数時間で決するのだろう。〔日本時間で4日午前1時頃、ケリーが電話してブッシュ勝利が決まった──後記〕

一般には、アメリカ人以外は、どちらかというとケリーに買ってほしいと思っている人が地球上では多いだろう。ブッシュはアメリカの内側ではともかく、アメリカの外側では、アメリカの単独主義と独善性を推し進めている(と見られている)からだ。日本のように、政権がブッシュの子犬になっていても、一般人はというと、どちらかと言われればブッシュは好きではなかろう。といっても、日本では多くの人がその点を決定的に重要視しているわけでもない。それは小泉支持率が、ブッシュを支持したからといって、それがあまり「応えない」ということにあらわれている。

ブッシュになるのとケリーになるのとどちらがいいか。どっちでもいい、どっちでもよくない、という言い方をしないなら、どちらがいいか。日本の国家方針との関係でいうと、軍事化や改憲を進めたいのであればブッシュ、そうでないならばケリー、ということになりそうである。が、じつはそう簡単でもない、とぼくは思う。というのは、日本に深く連関するような外交政策・軍事政策は、ケリーになったからといって、それほど変わるかどうかやや疑わしい。だとすると、ケリーになったら、現在の方針が、表向き「通しやすくなる」可能性もある。反対にブッシュになったら、その強引さがブッシュ像と結び付いてはっきり見えるので、「通しにくくなる」かもしれない。もちろん、それどころか、ブッシュだともっとひどいことが起こってくるかもしれないが──。

ブッシュは、南部でたくさんの票を取っている。ぼくの若い友人でハーバードの大学院に行っている人によれば、こんなことがあったという。──彼が、ハーバード大の学生ホールで、ブッシュとケリーのTV討論を大画面で他の学生と一緒に見たことがあった。その際、ブッシュを馬鹿にして笑う人が多く、その馬鹿にする仕方がいかにもエリートが田舎者をみる笑い方で、何か感じが悪かった、という。彼によれば、確かにブッシュは賢いという感じを与えず、立ち居振る舞いもこっけいなところが多い。しかし、そのブッシュを鼻でせせら笑っているアメリカのエリートの驕慢さが、田舎の反発を招いているといった回路もある。そのギャップやズレもあって、インテリ嫌いの保守的な(おおむね善良な)田舎の人々がいっそうブッシュ支持に回っていってしまう面もあるのだ、という。──こう言ってぼくの友人は、こうした問題にもっと危機意識を覚えるべきだ。そうしたことを感じ取れない都市育ちのエリートは視野が狭くひ弱だ。アメリカが貧富・教育格差で二極分解している現状を変えない限り、都市エリートがいくら自分の賢さを誇っても、社会の基層・周辺に追いやられた人を動かすことはできないだろう、と述べている。その点からいうと、クリントンは、田舎育ちで這い上がってきた人だから、強く、広く人々の支持をもらうような人柄があったと、とも付け加えている。

なるほどと思わされた。それぞれの生活圏なりにいろんな気持をもっている。それは認知であり徳性でもあり、その間に互いのギャップをも引き起こしている。都市部エリートは南部や中部の生活民のようなアメリカ人たちの保守的な政治・道徳意識が理解できない。他方、中・南部の人々は、東西部の都市エリートが当然視している、スマートな生き方や倫理感覚は分からないだろうし、後者がある程度は理解している他国との関係やコミュニケーションなどの状態については前者はたぶん関心がない。あったとしてもそれはおそらく(「悪との戦い」といった)単純な物語に置き換わっているのだろう。もちろん、都市エリートの中にもネオコンや宗教的保守主義者もいるし、田舎にもリベラルな人はいるだろうが、それにしても、以上のような大きな認知圏の分割という問題はあるのではないだろうか。

もちろん、アメリカの外にいる者としては、ケリー支持者たちのブッシュへの不快感のある部分は直ちによくわかる。ただ、その不快感にはもう少し別の部分も(アメリカの内部では)ある。それは生活感覚のようなものに根ざしている。そしてその部分は、ブッシュ支持者たちの側からいうと(これはぼくはTVで見たのだが)目に涙を溜めてブッシュを応援しているような部分と対応する。もちろん、彼らが頑として強硬な力を帯び、それに対して都市の知識層が「エリート的な軽蔑感」だけでなく、一種の恐ろしい感じや徒労感を抱くといったこともあるだろう。そのようなアメリカの「内部で働いているものの感じ」は、すぐには見えて来ない。

ちょっと似た話ということになるかどうか判らないが、佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書)では、陸軍の言論検閲官となった将校とこれに反発する文化人との関係が、じつは、表立った思想というよりも、田舎出の真面目者と都市型知識人との間の一種の相互の階級的偏見ともいうべきものに根ざして増幅されていたことを明らかにしている。むろん、だから鈴木庫三がよくて、南部アメリカ人がいい、その政治判断が正当化できる、というわけではまったくない。ただ、少なくともそのような階級感覚に居直って自由であり客観的であると思うことがおかしいことには、いやしくも知識人たるのであれば自覚的であるべきだ。そこからいうと、旧制高校生流のまた官学アカデミズム内のリベラルというものは、いい気なものであり、それが恥ずかしいと思うぐらいの感覚はもつべきだ。そうでないと、21世紀になっても、ブッシュが勝ち、右翼が勝っていくだろう。つまり、問題の背後には、政治的主張というだけでなく、階級/ヘゲモニー問題があるのであり、それを解かねばならない。

こうした問題は、じつは倫理−政治論としては、一番概括的にいえば、リベラリズム(リバタリアン)とコミュニタリアンの対立、という概念問題につながっているものがある。日本においても、現在、ある程度資産を持ち自由を享受できている層が、国家・共同体への回帰に反対し、(昔みたいにただの保守層というのではなく)家族や社会的連帯が解体したただ中にいる、元来は被害者といっていい層が、却って市民社会ではなく「お上の公」を求めているところがある(こうした対立構図は、55年体制での進歩か保守か、というのとはまた違った捻れ・裂け目がある)。そのアイロニーをどう克服するか、が問題である。そうなると、リベラルな「自己決定」というだけでなくよい意味での、コミュニタリアン的な要素も導入する必要が出てくる。少なくともそういう問題への想像力が必要になる。〔04.11.09 改訂・追記〕

  
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2004年10月27日

田中正造はすごい

この何ヶ月か時を見ては田中正造を読んでいるが、まったく感心することばかり。ぼくは昔、田中正造全集が配本されていたころ、買っていたのだが、反公害の原点とか、抵抗者の神様みたいに言われるのが、何かいやで、そのうち読みもせずにその全集を売ってしまった。

いま田中を実際に読んでみて、何と浅はかだったか──当時耳目にした持ち上げ方が、というより、そういうものかと思った自分がというべきだが──に気づいた。戦前、田中に義人伝説があったが、70年代にあったのも新しい義人伝説だったかもしれない。ところが、ところが、田中自身はそういうものではなかった。脱帽する。

田中は、近代的な自由や正義や法といった考えを正面から受け止めながらも、しかし近代的なものに寄生していい気になるのではなく、むしろ最低の生活の現場に立っていった。そこから、日本のさらに近代の国家・文明に対して根本的な批判をしている。今時の格好のいいとか、見かけがどうというような種類のものではまったくない。安っぽい虚無でいい気にもならず、勇気をもち、何よりもひととしての情趣と、ひろやかな厚い愛を失わない。身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。昔はこんな人がいたのだ。名を残さなくても、他にもいろいろ居たのだろうな。

名利や功に駆られ官や威や文明を誇る者たちが、無数のひとや動植物のこころを潰していったのだが、それで天地に恥じないのか、と田中は言っている。平将門が祀られたように、田中霊祀が出来たのも宜なるかな。
  
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