このところ仕事が膨大にあって、思考を続けることがあまりできなかった。
といっても、面白い話を聞いた──つまり人から聴いたのだが、日本テレビ系列の「爆笑問題のススメ」2004.2.23に大槻ケンヂが出演して、興味引かれることを言った。
ケンヂによれば、「少年」というのは、結構いい背広を着て活躍しているような輩について、「少年の眼をしている」などと言って自他称えたりするもので、それはイヤらしいことなのだそうだ。ではケンヂは「(少年などと言わずに)いっそしっかり大人たれ(その方がいい)」というのかというと、むろんそうではない。ケンヂはむしろ自分は「赤ちゃん大人になりたい」、そして「だだをこねて生きたい」のだそうだ。
調べてみると、大槻ケンヂは、2003年12月に出した「オムライザー」というCDに、「子供じゃないんだ赤ちゃんなんだ」という曲を入れている。彼は「赤ちゃん」という主張の確信犯らしい。何だか面白い考え方だ。
「永遠の少年」(プエル・エテルヌスpuer aeternus)という原型をユング心理学などでいうことがある。しかしその場合は、「永遠の」という形容詞に示されているように、おとなになれない・成長成熟できない、ということにひとつの重要な強調点がある。心理学はそこに少年の創造性もむろん見るのだが、しかし、やはり成熟すべきプロセスが考えられていて、そうなっていない、ということが指摘される。
しかし、ケンヂが「少年」が「イヤらしい」というのは、ちょっとニュアンスが違っていて、むしろ「大人」であることのestablishment性を享受し誇る者が欺瞞的にもつナルシシズム、「ええ格好しい」のロマンチシズムみたいなものを「少年」の語に見出し、それを批判している。つまり、ケンヂは、「大人にならない」といって批判しているのではなく、「結構大人になっているくせに」といって批判している。翻っていえば、ケンヂは、「もっと子どもであるべし」という当為を抱いている。それどころか彼は「子ども」でも満足しない。そこで「子どもじゃないんだ赤ちゃんなんだ」というわけである。何と過激な。。。
原型の話にもどると、少年よりもっと幼い者の原型というのはある。日本の物語などの「童子」はだいぶ少年っぽいが「赤ちゃん」性も帯びているようだ。柳田国男などのいう「小さ子」や、幼な子イエス(聖クリストファー)、ホムンクルス、そしていわゆる泰西名画に描かれる聖母子や、エンゼルは、あきらかに「赤ちゃん」である。(現代では、森永のキャラメルやキューピーもそうだが、あれはどういう表象だろうか。)
それらの話や画像は、その「赤ちゃん」がじつは重要な存在なのだ、と語っている。赤ちゃん自身が聖なるものを背後に持ち、その使いであったり、物語中でみずからそういう聖なる存在になったり・なることが予想されたりする。「子はみな神の子」というように、たしかに、赤ちゃんは、それより大きくなった場合の、意識的活動や実践性からくるナルシシズム・欺瞞・悪意といった余計な人為性や主我性を帯びておらず、その意味で、聖なるものの受肉そのものともいえる。
とはいえ、ケンヂは、その種の聖なる世界との関連を言いたいのだろうか。意外にそういうところもじつはあるのかもしれない。ただ、表立っては、彼はそういう世界像とは関連づけていないようだ。それより、彼は、つべこべ理屈づけしないで、笑ったり泣いたり飲んだりウンチをしたりしている、そのいのちの発揮そのもの、それこそが原理だ、と言っているように思える。赤ちゃんは、欺瞞も自己陶酔もしない、泣くけれども怒りやうらみは持たない。赤ちゃんは弱く、戦争などしない。とすれば、これは究極の傷つきやすさ、傷つきやすさの極限だといえる。
「赤ちゃん」を考えていたら思い出した。宮沢賢治を読んでいたら、イカだったかタコだったか、その存在を「立派」だと言っている箇所があった。たしかに、木を一本でもよく見たら、片隅に生えている小さな野草の花を一輪でもよく見たら、立派だといって尊敬するほかないようなものがある。それをぼくらは何と踏みにじるのだが。。。
もちろん、「赤ちゃん」のままで/だけで生きていくことはできない。赤ちゃんは、保護によってしか生きることができない。その存在は、もっぱら誰かに依存している。赤ちゃんは面倒をかけるばかりで、社会的・倫理的な「いいこと」をみずから一切できないしまた行わない。その地平からいえば、超無責任存在である。そしてその無責任な部分は、誰か赤ちゃんでない他の人の配慮や知識や情動や行為により満たされることが必要である。そのことが赤ちゃんを赤ちゃんたらしめ、その生をあらしめている。
したがって、「赤ちゃん」それ自体をぼくらの生き方に等置することはできない。だからこそケンヂは「赤ちゃん大人」になると言っているわけだ。しかし、赤ちゃんという究極的な生命から出発すると確認することは、正しい道をもたらすか、あるいはそのために役立つかもしれない。「だだをこねる」とケンヂはいった。最近は、だだをこねるものを虐待することが多いけれど、だだをこねる者の方が正しいことが少なくないのではないだろうか。少年の「だだ」はどうか知らないが、赤ちゃんの「だだ」はその意味をとにかく「聴くべきもの」ではないだろうか。
もちろん「だだ」がそのままもっと大きくなったら、それはパターナリズムに応じた「甘え」になり「たかり」になるだろう。しかし、赤ちゃんの「だだ」はそうではない。それは、そうした人為的要求以前の、それこそが「配慮すべきもの」であり、そのために人為があるべきものである。それは、人に自ら何かを考えさせ・行わせる生命の声というべきものである。「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺があるが、この傷つきやすさの極限には、人に対する──自分の(思考であれ行為であれ)責任というものを振りかえさせる──一種絶対的な問いがある。
おそらく赤ちゃんは、そういう声を発し、それが十分に誰かによって応答されることの中から、次第に「赤ちゃんならざるもの」になっていくのだろう。赤ちゃんもまた、やがて「赤ちゃんならざるもの」をやがて身につけねばならない。が、それは何のためか。たぶんひとつには、別の赤ちゃんのためである。
社会的地平からはまったく無責任な赤ちゃんは、倫理の限界面に位置し、そこから逆に倫理的なものを位置づけている。ニーチェは「生成の無垢」ということを言っている。ただしニーチェ自身はどうだか知らないが、ニーチェを「語る人」はたいてい、無垢を振りかざすゆえに、やはり大槻ケンヂのいうイヤらしさの指摘を免れないのではないか。このような無垢は近代の化け物かもしれない。また、「赤ちゃん」が、一種の「かわいさ」として利用されたり消費されていくとき、やはり奇怪な赤ちゃん現象が起こる。
さらには、ファシズム期に言われた、(陛下の)「赤子」という概念も──それは記紀における天照に真向かい合いつつ降臨する孫のイメージにもつながるものだが──、「赤ちゃん」メタファーの倫理的簒奪だった。ここでは、「赤ちゃんの声を聞け」というのではなく、「赤ちゃんになって言うことを聞け」というのである。そこで「赤子」は、容易に手をひねられるような柔弱な受容性たれという絶対随順のメタファーに使われている。しかし、「赤子」はともかく、「赤ちゃん」はそうはいかない。陛下の赤ちゃんたれ!だと、何のこっちゃ、ということになる。
ともあれ、現代にはそうした擬似的な赤ちゃんが肥大し、社会を覆ってインフレを起こしているということもできる。そもそも、こうして赤ちゃんを肯定的に議論し、その生命の文明への批判的・根源的機能をもつべきことを敢えて蝶々していること自体、じつは文明の繭の内側に居座っているのであって、野生人は、それにあきれ果てるかもしれない──。巨大な機械や組織やシステムによって生き、それであたかも自己が万能であるかのように感じている現代人は、文字通り赤ちゃんの風上にも置けない異常な赤ちゃんである。
そうしたことを考えた上で、しかしそれでも、「赤ちゃん」にはどうも侮れない問題がある。思えば、老子がもう「嬰児」を論じている。それが何かもさらに考えてみたい。
