2004年03月22日
vicious circleとしての賄賂と暴力
賄賂というものは、近代人が非難するほど、「悪い」ものか、という疑問をぼくは持ってきた。もちろん悪代官風の賄賂や、キックバックが「よい」というのではない。そうではなく、賄賂の類が、社会的なある制度になっていて、それによって、経済的な利潤がプールされたりフィードバックする、あるいは何かを保証するなど、一種の合理的機能も何ほどかあるのではないか、そんな側面も推測されるからだ。
たとえば、現在のような学校制度に保護されていない昔の教師は、生徒や周囲からの「束修」(付け届け)によって生活していた。それは羞じることではなかった。まあそれは賄賂というべきではなく、喜捨というか贈与というべきだろう。だが、一般に何かを人にしてくれと頼む際に、(特にそのポジションがはっきり決まっていないとかすることに流動性があったりする場合は)、「心付け」を個人的に渡すことはかつてはよくあった。ぼくの子供のころ、引っ越しのお兄さんに親が(支払いとは別に)ちょっとお金を渡して「よろしくね」と言ったり、宿の仲居さんに大人がちょっと百円札?!か何かを渡しているのを見たことがある。そういう「心付け」のような金品の流れは、何らかの仕事や協業を成り立たせるための仕組となっていることもあったようだ。ただ、その必要の度が甚だしかったり、それで特定の誰かが特に贔屓される、などといったことになれば、問題だろう。また、すでに十分な給与を他からもらっており、いわば満たされているのに、なおかつ「束修」や「心付け」を得る/得ようとするならば、それはおかしい。
現代でも、第三世界では、公務員だと思っている人から事を処理するときに軽く「ゆすられ」、お金を渡すことも少なくない。それはむろん賄賂といえるだろう。だが、ある程度社会的に制度化している面もある。それが権力を肥大させる面もむろんあるが、それが無ければ貧しい役人は食えない、あるいはそれでよりたくさんの人が食べている、などといった側面もある。そういう支払いを困った人から取るのは非道といえるが、金持ちの余所者から取るのは、個人的にはともかく全体としてはささやかな差別の是正であって、公正であり、それを払うのはnoblesse oblidge?かもしれない。(とは言え、それも、小さいとはすでに利権を持ったものがそれを「募る」もので、より貧しい者に対しては結局収奪になる可能性は大いにあるだろうが──)。
チップについてはどうだろうか。これはサービスを払った「後で」渡す場合が多いが、その「前に」渡す場合もある。日本でよくあるように、店が従業員を全体として管理している場合はチップは無くなる(ないしチップ自体が回収される)が、しかし、店を場所にして、個々人が営業しているのだと考えれば、チップはあって当然である。そして、もしも顧客とサービスする人との間の需給関係=権力関係において、後者が強いようであれば、「チップ」は「渡し金」になっていくだろう。
こう考えてみると、「賄賂」のように見えるものが、どこまでが不正であるかを(まずはその当の社会のあり方に照らして)考えることが必要である。また、かりにそれが当該社会にとっても不当だと感じられることがあるにしても、それを規制するのみならず置き換える制度を準備しようとしないで、ただ倫理的に批判するのでは、(まだそれが妥当性をもつ社会的基礎が残っている可能性があるから)批判として事柄に届いていないことになる。主観的倫理に帰着するだけでは未解決の部分があるからだ。だから、自分が「付け届け不要」の制度のうちにすでに居るからといって、自分はクリーンで、他がダーティーだとも言えない。武士は食わねど高楊枝は立派といえようが、制度的に十分食えている者が、純粋のきわめて廉価な贈与を受け取らないと突っ張ることは、じつは当該の制度への防衛的な立てこもりであることさえありうる。
といったことを考えていたのだが、いずれにせよ、金力・権力を公共的な制度によって担保したり批判的に吟味したりする制度がない社会においても、やはり「賄賂」と「お礼」「正当な依頼金」の類との〈区別〉(あるいは適正価格というか)はどこかで(曖昧であれ)線引きがあったはずである。そのことはさらに考える必要がある。賄賂のことを、protection moneyというが、所場代・みかじめ料とか、保険料みたいな意味があるようだ。税は、社会的にはもともとprotection moneyから生成したのではないのか。
また、上のみた例をみてもわかるように、賄賂の問題はあきらかに権力の形成と(その前であれ後であれ)連関しており、それが文字どおり賄賂的なものになるかそうではないものとなるかは、その支配が「公」的か「公共」的かといった問題にも関わってくる。
公共機関が現在ほど成立せずその支配が完全ではない場合を考えてみる。そこにはたいてい人々の仕事を守ってくれたり、よく按配してくれる、よい親分さんと悪い親分さんとがいるはずである。鬼平犯科帳で長谷川平蔵はしばしば「過分なもの」を受け取ったりする。だが、それはいずれ仕事にとって有益なものに転化され、鬼平が一人遊びに使っている訳ではない、という了解があって、読者はそれにまったく納得している。これに対して、「悪い親分」は何をしているのか。たぶん簡単に言えば、「余計に/不当に溜め込んでいる」のである。ということは、そこでは利益の互酬的な循環がうまく回らずに、不当に吸い上げられるようなことになっているのだと言えよう。言い換えれば、そこにはvicious circleが生まれているのである。
もちろん、vicious circleの問題は、ある個別ポイントについてだけでなく、それがずっと複数連関して構造になっているのだろうし、また、あるcircle内部では、きわめてよろしく公正に行われていて、まったくviciousではない、しかし、その外との関連を見ると、「溜め込んでいる」というようなこともある。
たとえば、日本近代の国民国家システムなどは、内部的には比較的浄化したと言える方だろうが、対外的にクリーンかどうかは大いに問題である。西欧の「民主主義」と呼ばれるものも、しばしば植民地的収奪に基づいている。とすれば、それらも、賄賂と収奪で溜め込んだ親分や子分たちが、自分たちの家族や親族の中でいい家を立ててコミュニティーを作ったようなものだとも言える。
早い話、外から見るからviciousなのであって、vicious circleであるものも内から見ればvirtuousであるかもしれない。内外が裏腹に反比例するなら、外から見てよりviciousであるほど、内においてはよりいっそうvirtuousである。だから、本当にviciousかvirtuousかは、内外を通約する地平を考えないと何とも言えないのである。が、そうであるゆえに、翻って、virtuousは必ずviciousを伴い、またそうであり続ける、とも必ずしも言えない、ということになる。たとえば、ある内部的なvirtuousが、外部にviciousを伴わない場合もあるかもしれないし、またたとえ伴っていても、そのviciousを食い破って、virtuousを外にも広げる、などということもあるかもしれない。これは、いわば「善意の輪が広がる」例である。孟子がよく説く非戦論や仁義論は、その類のものを喚起しようとしているのだと言える。
ぼく自身の感覚はというと、賄賂はもちろん個別な贈与のやりとりが周流することも、あまり好きではない。お祝いやお礼として、大っぴらな場所で、何かというと花束をやろうとする日本の習慣もぼくは好きではない。こういうのは、virtuousなものが広がっているというより、私的なものが流出している感じがする。そしてそれはたいてい、viciousなものをそれで見えなくしているような気がするのだ。贈与というものは大事だと思うが、それは、何かそれぞれの一回性を含み、そのことによって何か普遍的なものに繋がるようなものがほしいような気がする。そうでなければ、やり取りはお互いがシンプルに生きていけるだけで十分だ。
以上の賄賂問題ともうひとつパラレルと思われのは、暴力の問題である。賄賂自体は「金力」だが、たいていそこには「腕力」が伴っているものである。つまり、「悪い親分」は、暴力・権力についても、vicious circleを作っているだろうと考えられる。この問題は、むろん公共性の問題と関連がある。これについても継続して考える必要がある。
ある法哲学者の人と話していたら、賄賂研究というのも(事実のみならず理論として)ちゃんとあると教えられた。そのあたりももっと知りたい。金力のvicious circleの「輪」の成立をはっきりさせ、それを解くことは、「暴力」における同様の課題にもつながっているはずだ。
2004年03月16日
「歴史認識」の内容と方法
「歴史認識」の問題がしばしば政治問題になっている。歴史をめぐって「認識されるもの」のうちには、むろん資料にもとづき物理的にも特定できる俗にいう客観性を帯びたものも(ある程度は)ある。それはそれで、事柄をとらえ解きほぐすことの中からはっきりしてくる。しかし、どんな事柄に関心を注ぐか、またその事柄をどんな意味をもつものとして捉えるかについては、解釈の問題になる。
そうした「意味的なもの」は認識者の関心・選択・読みによって生成してくる。またそれは(関心ということに含まれてくることだが)「将来に投げ掛けられる」ものでもある。つまりその「意味的なもの」は、たんに所与のものを受け止めたり・切り取ったりして現れるものであるのみならず、所与のものと結び付いてあたらしい事実の地平を構成するものでもある。そうした「意味のダイナミクス」は、自然科学的な認識でも、そもそも対象の選択や理論の適用においてありが、それが技術と結び付いたプロジェクトのうちにあるとき、その客観性はそれとしてあるようであっても、それはまさに人間的関心と実践に囲繞され・支えられているのだと言える。
人文社会関係の認識の場合は、事象は文字通り人間的なものであって、そこに意味が縦横に働き合いかつ重層するがゆえに、それが「意味的なもの」であることはより顕著であり、自然科学のように媒介的ではない。とりわけ、「歴史」は、その意味の蓄積や交替、将来への投げ掛けに関わるがゆえに、その意味はより「深く」根本的だといえる。ただし、歴史においては、(科学のように)人が「それを対象的に客観視するがゆえに」背後・却下の実践的意味が見えなくなるという機制よりも、人が「それを自ら生きるがゆえに」そこに含意された実践的意味が見えなくなるという機制が働くように思える。
当座の脈絡以上の意味の動きがとらえ得なくなる機制が何であるにせよ、もとより、「知を知のために」追求すべく政治・経済等の制約からある程度分離された(大学を始めとする)者が、その「価値自由」なスタンスによってそうした「客観性」を見出す可能性と義務をもつということはある程度言わねばならない。にもかかわらず、そうした「自由な」場や主体自身が、(そうした自由を求めるがゆえにまた)様々な権力や金力の時代社会個人的な関心によって影響されうることもやはり明らかである。「客観性」の背後のこうした関心の干渉は、ちょうど分析心理学などで理性的な意識の背後の意識無意識裡の欲求を自覚することとも似て、批判的な注意と分析が必要である。
先に述べたように、実践的な「意味」の関与する度が「歴史」においてとりわけ大きいというのは、歴史が意味的なものが縦横かつ重層的に関わる人間的な営みのなかでも、意味の諸文脈を「たばねるような流れ」に関わるからだ。だれでも自分を位置づけようとするとき自分の来し方・行く末を考えたくなるものだが、集団もそうである。歴史という来歴の語りは、人々の生やその倫理を意味づけるカテゴリーになるような時間性であり、にもかかわらず、それは当然視され、改めて気づかぬように生きられさえする前提的な流れである。だから、それがそもそもどうであるかという問いが起こると、重大事にならざるを得ない。その「どうであるか」はたんに純然たる事実問題であるだけでなく、倫理問題にたいてい深くかかわっている。
状況的にいうと、現在、歴史認識が問題にされることになったのは、かつて20世紀および冷戦下、当然であると思っていた世界の見え方が、冷戦後に、批判的に対象化され始めたからだ。そこでは、従来のものの見え方・生き方が、一方で、国民国家の枠組みによって制約されていたことがわかり始め、他方で、国家の枠組を越えて客観的・普遍的などと信じられていた認識枠(たとえばマルクス主義、毛沢東主義、民衆史観何であれ)も、じつはバイアス含みの制度として、ひとへの支配だったことがわかってきたからである。両者のどちらであるにせよ、それらは、戦後の、広くいって20世紀の、人々の「客観」というか、それを押し出す「実践」的価値に、決定的な作用をもたらしていた。それが相対化され始めた。そこに、従来雌伏していたものや、反動作用を帯びたものや、いろいろ現れだして来て、一種の歴史認識の覇権をめぐる争いのような状況も現出してきた。
むろんそうした闘争は従来からいろいろあったものではあるが、現在のものは、明らかに大きな時代的エポックの変化と関わって生まれている。それはあたかもかつてソフィストや百家が言論の基準となるヘゲモニーを争奪したかの時代に似て──というほど結果的に意味があればいいが──、そこには(時代変化のアクセレータでもある)人間における知のメディア的秩序の変化が相関わっている。ソフィストや百家の時代は、オラリティーからリテラシーの帝国への変化だったが、現在は、何だろうか。情報化にもとづくメディア的変化があり、それを背景に新たな帝国や生活世界が湧出しようとしているにちがいない、とぼくには思える。
以下、次のような問題についてふれるつもり:
・しこり・神話作用
・対抗的共犯関係
・複合的な認識と、智恵
・共感・反感、正義
・プロセスとしての歴史的理性
・歴史における智恵と理性
・子供の認識、おとなの認識
・認識が無理であること、無感覚・無知であることの原因
・二人称的認識と三人称的認識
(続)
2004年03月13日
テキストとスピーチの物語性
今度は、英語史の先生が辞める最終講義とパーティーに出た。最終講義では、6頁のレジュメが配布され、それも11世紀の古英語の例がぎっしりだったので、これはわからないな、と思ったが、説明が丁寧でよくわかった。
講義で示されたのは、言葉や典拠との関係を丁寧に追って、その語用を分析し、環境も考慮して推論をほどこしつつ、それが使われた世界を浮き彫りにし、さらには言語の歴史を通し見ていくという作業。大づかみな概論を一度にやるのではなく、ディテールにまず入り、そのポイントを扱う。ただし、そこに留まってしまうのではなく、さらにそこからより大きなコンテクストを見出していくという手法。
これは、理論的というよりは、調べ物的であり、しかしさらには物語論的なものでもある。そうして、グローバル/普遍主義ではなく、かといってローカル/特殊主義でもなく、グローカルといってよい、輻輳的な像が見出されている。こういう方法によるストーリーの書き換えが、人文系のいろんな場所でおそらく起こっているのであり、英語史においてもそうなのだろう、と思った。
ぼく自身はこのような語学的な分析は(たとえ英語でなくても)到底できない。しかし、他方でぼくも、思想史テクストにおける理論的言語のレベルでは似たような、一言一句に詳しくこだわりながらそれを少しづつ広げていこうとする作業をやっている面もある。つまり、着手点はちがうが、ぼくもやはり同様のテクスト分析をやりたいと考えてはおり、その共通点は面白かった。
文字テキストのこうした分析は、この1000年か1500年ほどの人間の文化の中心作業だった。そうした仕事自体は残るに違いないが、しかし、そうしたディシプリンやジャンルの意味・位置づけは、相対化されていく。歴史性を帯びて形成される人文的テキストといった趣きはだんだんこれにこだわる人を減じ、時代とともにそうした文字テキスト的過去は忘れられる。文字テクストは必ずしも想起されなくなり、代わりに画像もともなった語りがひろがるだろう。だとすると、こうした仕事はいったいどうなるのか。
そうしたことを片隅に思いながら、パーティーに出ると、何人かの偉い先生が、この先生が英語史というディシプリンをいかに着実かつすばらしく行う人だったか、この仕事がじつは世界で稀な貴重なものなのだということを語った。と同時に、スピーチは、英語史という古典学的な手法が、現在のアカデミズムで、どんどん前線を退却させられているその危機感をその裏でにじませるものばかりだった。
この先生は、縁戚にあたり、そのことでぼくも、急にスピーチをすることになった。ぼく自身は、先生との縁戚を説明し、おとうさんのいかにも金にも権力にも無縁な印象を述べ、それが自分を現在に至らせたのかも知れないということ、キャンパスにおいて、先生の人徳がぼくにとって、今後七光りになるだろう、といったことを述べた。硬い話ばかりだったからか、あとで案外みながニコニコしてくれたのはびっくりした。
あとで気づいたのだが、スピーチの際、人はその人との機縁を語ることが多い。そしてそのことによりもたらされたものへの感謝や今後の寿ぎに話をもっていく。それは、ありきたりのものにもなるが、それが面白い場合は、いかにもその人とその人の出会いという文字通りlocaltiyが語られていく、そのことを知る喜びをあたえ、その人の負った物語ともいうべきものが見え、しかもしれが、個別的でありながらも、何か共感を生じる、といった場合である。
そのとき、(親戚だだったら親戚としての、同僚だったら同僚としての、後輩なら後輩としての・・・・・・)個別の縁を通じて、その語りが広がった共鳴を起こすわけである。このあり方は、しかし、上のテキスト分析における解釈の仕事を、受容というより生産において行っているのだと言える。それが面白いと思われるかぎり、たとえ英語史や思想史は忘れられても、機縁をたどり・語るという人の営みそのものは、なくならないに違いない。
2004年03月09日
二人称・三人称・非人称
人称(person)を言語というより人間のあり方として考えるとき、「二人称」「三人称」「非人称」の違いはどう考えられるだろうか。
ひとつは、自己からの親近と疎遠でとらえることができるようだ。(「親」という概念はもともと身に密着しているとか身みずからという意味で、そこから引いては仲がいいという意味ももつ。もともと親=愛であるわけではない。だからこそ、親しくても憎んでいる、ということがありうるのだ。そのあたり不理解もあるので一言。) もうひとつは、対面性(向かい合っている、一対一である)と第三者性でとらえることができると思う。
この両者は切り取り方がちがうが、しかし繋がってもいる。対面性が頻繁であるときに、より親近するのであり、第三者性がつねであるときに、より疎遠である。当然、前者が「二人称」、後者が「三人称」になっていく。さらには、この第三者性と疎遠の彼方にまったくの第三者・疎遠なものとして「非人称」を考えることができる。
ただし、そのような「まったくの疎遠者」ともいうべきものが、果たして古代や中世にありえたのか、ぼくにはわからない。いや(宇宙が閉鎖系である限り)それは無かったのではないか、と思う。いや無かったともいえず、有るならば、純粋な物質ともいうべきものか、それとも無限なのだろう。が、そうだとしても、人はその背後にしばしば何らかの「人称」を感得していたのではあるまいか。言語にもどるならば、itは非人称か無人称か知らないが、それは超越者とつなげられてくるし、また「物」は、物の怪の「もの」でもある。
だが、そうした人称が剥落したときに、おそらく本当の?「非人称」が現れたといえるだろう。が、それにしても、そうした非人称を、(ポストモダン的なシステムによって給餌された現代人の)人称忘却の姿としてみることは可能である。少なくとも、生活世界は人称的世界であり、これを非人称的世界だと見てしまうのは、逆立ちしている。が、この逆立ちが現代の必然的状況なのだ。
2004年03月06日
フランス文化・文学に関わるひとびと
フランス関係の先生のお別れパーティーに呼ばれて出た。こじんまりして瀟洒な住宅風のレストランで、おいしい料理・酒菓が出て、ピアノの背景演奏がポロンポロンとあり、気の利いたスピーチがたくさんあり、多くの花束が行き交った。
終わってレストランを出てみると、一緒に帰ろうという人から、ぼくの片方の靴下がズボンを噛んで、ニッカボッカみたいになっているのを注意された。「山から降りて来たみたいだね」と。 すると、この宴のあいだ中、いや今朝からずっと、ぼくはこうして生きていたのだな。
宴の絢爛豪華というか、いや、派手過ぎないように適度に美しくまとめられた趣味のよさには驚いた。みな「いい服」を着ていた。まぎれなく一種の文化的な「共同体」があるなあ、と思った。アジアの金の無い留学生ばかりと付き合って、彼らの心や体がおしつぶされそうだったり、そこを勝ち誇ろうとしたりそねんだり、それを乗り越えようと格闘しているその気分といつもつきあっているぼくには、とてもおどろきだった。照明の下のその空間を見るときの気分は、マッチ売りの少女というか、これは何なのだろう、と思ってみると、ああそうか、宗主国文化に対する植民地民の感情が、ぼくがそこで感じたものに少し似ているのかもしれない。あるいは、階級文化に対する下民の気分みたいな。。。
とはいえ、その宗主国文化・階級文化も、いまや多様性をもち、ぼくなどもそこに入ることが出来るようになったわけだ。だいいち、その先生は、奴隷や植民地にかかわる文学問題を避けることなく扱った人なのだ。そこにある「美」には、パターナリズムかマターナリズムかわからないが一種の愛が含まれていることもたしかだ。しかし、それにしても、学生たちが盛装して行儀よく振舞っているにはおどろいた。こういうことがあるのか。
振り返って思うと、少年期いらい大人になっても、ぼくは、思想や理論に関心があっても、儀礼や社交というものに、そういうものにまつわる美にも一切関心が無かった。お祭り(縁日)や礼拝の類は好きだったが。。付き合いのマナーや世界を、親からも全然教えられなかった。20代になって初めて友人の結婚式というものに出たとき、それは高輪プリンスホテルだったが、背広を着ていくことまでは思いついたが、お祝儀を持っていくことには一向に思い当たらなかった。そして用事があったので、早めに退席したのだった(いま思えば失礼してわるかった)。こうした自分の性向・ハビトゥスは、その後だいぶ長い間、ぼくが文学よりは哲学が、文学の中でも小説よりは詩がすきだったとか、宗教においても、密教よりは禅が好きだったといったこととも、関係があるようだ。
ともかく、そうしたぼくは、その宴に「フランス」関係者の気風を感じたのだった。だが、フランス文化といってもさまざまだろう。中江兆民が触れたものも、九鬼周造、永井荷風や藤田嗣次などがふれたものもあるだろう。遠藤周作は翻ってああなってしまった。
彼らはいったい何を感じていたのか。
そもそも、それはフランス文化なのか。それがフランスと「関係がある」ことはちがいない。だが、それがはたしてフランス(文化)「である」か「でない」かといった遡及に入りこむことには意味がない。実際、それかあらぬか、主賓は着物(和服)を着ていたのだ。だとすると、そこにあるのは文化的価値の産出をめぐる人の志向、その差異や同化の力学であり、それを生きることの意味だというほかはない。そこに、しかし、いろんな色調がある。フランスとはその志向され望まれる或る色調だ。
萩原朔太郎は「フランスに行きたしと思へども フランスはあまりに遠し。せめて新しき背広を着て きままなる旅に出てみん」とうたった。それが「遠い」(自分はそれではない、自分はそこにはいない)と感じる人、「近い」(自分はそれである、自分はそこにいる)と感じる人。──が、いずれであっても、宴には時間があり、また人生にも時間がある。その「遠い」「近い」の距離も、やはり時間のうちにある。フランスであろうとなかろうと、すべて「ひとの世」は時間をもつ。
いのちと命
論語に有名な「五十にして天命を知る」(五十而知天命)という言葉がある〔為政篇〕。
「命」を「天命」というのは、当然、儒教的というか、天の言説との関連づけがあるわけだが、しかし、そもそもそこで「命」と呼ばれているものは何なのだろうか。
思うに、「命」の観念の根には、日本語にすれば「いのち」ともいうべきものの感得があるようだ。それが漢字では「命」にあたっているといってもよい(少なくとも日本では)。ただ、この点は、漢字としての「命」をもっと調べなければいけない。が、いまはそこに入らないで、まず、命の基礎=いのちとしておき、「いのち」と「命」について考えてみる。
「いのち」とは、何らかの存在が、それあって生きているもの、生きているといえる根本の状態・条件・要素である。しかし問題は、生きていると「いえる」という、そのいえるということである。つまり、何を「いのち」と感得するかは、じつはいろんなとらえ方や層がある。そしてそれは多分に文化的・言語的に、そしてまた個人的にとらえられるものだ。
たとえば、端的な例をとると、脳死云々という議論も、現代科学の側からの「いのち」の定義である。ただ、その定義・線引きがどうであれ、ぼくらはたいていは、もっと「広がりのあるいのち」をもっており、それを即自的に「内側から生きて」いる。
とはいえ、「これがいのちだ」という定義やそれに結びついた制度は、その内部の即自性に対していずれ「外側から」つよく跳ね返ってくる。そして、それは「内側から」のものとなる。そうしてぼくらは、しばしば、何らかのさまざまな定義によって、自分たちのいのちを縮めたり広げたり、強めたり弱めたり、色づけたりしている。あるいは、そのような外からの内面化に抵抗し、そのことが自分のいのちに新たなフェーズを創り出すこともある。
いずれにせよ、いのちの内部と外部は、(相手を己に)「巻き込み」(involove)あるいは(相手に己を)「具現」(represent)し、そのことでいのちのあり方を「繰り込んで」(renormalize)いく。そのいのちの相互作用的な生成において、内部と外部、鶏が先か卵が先か、たどれば判らない。が、どちらにせよ、まずぼくらにあるのは、個々の存在としての自分たちの、色調・気分・衝動・行動などを含み・帯びた生命状態である。それをぼくらはまず「いのち」と感得している。そのようにいのちをあるまとまった「自己」の組織として先取しているというその限りにおいて、いのちが比ゆ的にいえば「卵」のように表象される必然性はある。これは内部性ということを繰り返し言っているに過ぎないが。。とはいえ、その「卵」はまた「鶏」となり、次の「卵」をうむ。
上にいのちの外部について定義・制度、そして相互作用ということをいった。それは空間的な問題だけではない。いまも述べたように、いのちは過去からの継承によってそれとして現れ、それが次に継がれる。だから、その内部も当然、先天的な定義や制度をもっている。いのちには縦横にいろんなものが手渡されているのだ。ただし、外部=定義・制度とだけいうと、まちがってしまう。外部は定義・制度をもっているが、しかしそれ自身、やはり先立ってまた内部なのだ。こうして、いのちはまずいのちと、自己は自己と働き合っている。
「いのち」の即自性に立ち戻ってみると、そこには内的外的な活発さやら停滞やらがあり、蓄積や閉塞や目的に向かっての動き等々がある。それは、エネルギー論的・力学的にとらえうる面があり、実際、フロイトはそのようなものとしてとらえたといえよう。フロイトだけではない。仏教の「業」論も、フロイトと図式のちがいはあれ、やはり、いのちの流れや蓄積についての議論だということができる。
こうして「いのち」は、人間の背後や過去を背負いさらに将来に向けてあり、衝動のごときものからもっと価値的に昇華されたものまで、生理的なものから文化的・倫理的に定義されたものまで、考えられる。また、仏教の「共業」という思想にみられるように、いのちはある程度個的なものであっても、それがまた集合的なものに、何らかの形でつながっていることが少なくない。もとより、現代では個人の「いのち」はただ「私」であり、あとは制度的言語やその時空的連関だけがあるかのように表象されていることが多い。しかし、そのような「私的なもの」といういのちの定義自体、じつは近代文化の産物だといえる。
とはいえ、個の側からとらえるならいっそう、類的にとらえる際であっても、「いのち」にはある「活発さ」や「充実」があり──したがってそこに価値をおび──、またその時間性をおびた・空間性をおびた「限界」がある。この点については、「いのち」はあまり概念化されていないが、「命」については古来いろんな議論がある。自分なりに整理すれば、「命」論は、「生命」「運命」「使命」の三つぐらいに分けて考えればどうか、と考えている。
言語的・人為的な性質を帯び、また時間的空間的な刻印をとりわけつよいのは、「使命」である。「使命」をひとはどんなときに感じるだろうか。たぶんそれは、それが誰かからの「命」──このとき、命とは、誰かからの期待を帯びた指示・メッセイジ(mandate)である──であり、また誰かへの「命」であり、そして、それが時間的空間的な限界や危機において意識されている場合である。
最初の「五十にして天命を知る」に戻ると、この天命は、「運命」でもあろうが、重心はおそらくは「使命」なのだろう。その内容は、儒教的なものとして、あきらかに政治的・倫理的なものであるにちがいない。それはおそらく、「人々のために何々をする」といったことだろう。またそれは「生命」の限界とも関連がある。つまり、死が何らかの形で意識されるときに、ひとはいっそうこうした「命」を感じる。それはつよくいえば一種終末論的な意識のような面がある。
このあたりのことは、ぼくも50を過ぎたから、ほんとのところ、感じるようになった。この切迫感のような定まったような感じは、40台のときには感じなかったものだ。40代のときには、たしかに自分が前に進もうとし、進めるような感じだったが、もっと何だかんだとあちこちに動くもの・定まらぬものが自分の中にあった。これが「四十にして惑わず」だろうか。それにしても、もう少し早めに天命を知っていたら、と思うけれど。。。しかしそれも「運命」か。いずれにせよ、この限界とともに浮かび上がる「命」は、あきらかに他者との関連を帯びている。
先に自分自身で「考えること」にいのちがある、と述べた。それは、Life is short, Art is long.というときの、Artの問題でもあるが、それは、端的な意味でのlifeが、しかしじつは人の個的なわざを介して別の類的ないのちに転換することだといえよう。その内容を、孔子は「命」といい、ギリシア人は「イデア」と呼んだのではないだろうか。
もうひとついえるのは、上のような「いのち」の動きは、古来の「幸福」(eudaimonia)につながっているということだ。逆にいうと、幸福論は、いのち(生命)の論を前提している。それについてはまた別個に考えたい。
さらに展開する必要があるのは、先にもふれた「生まれる」「生む」ということ、そして、鉱物・動物・植物・人間、そして機械といった従来の思想で考えられた存在のヒエラルキアのこと。西田幾多郎は、「論理と生命」について書いていたが、諸存在者について述べていたっけ? いや述べていないはずはない。ともあれ現在の哲学は、生命、存在者のカテゴリー、そして父・母・子・・・・・・といった基本的なことについて、還元されたカテゴリーによってなる論理空間に投射するばかりで、認識力を喪失している。
(今回は、思考が先走ってしまったようだ。「思うて学ばざれば危うし」というべきか。)