2007年05月12日

少しお休み

この表現を少しお休みすることにします。なぜか。それは表現できないからです。うまくとか上手にとかその逆にとかいうことではなく、そのことがあるにしても、どうも表現したくないか/あるいはできないのです。

そうする理由はなにか。自分自身の内部の、というか、外部であっても、どこか他者とわかりあえるものであっても、ともかく容易に表現できないし、する気持にやはりなれないから。

表現しないとは何なのか。自分自身わかっているのか。絶望なのか失敗なのかいい加減なのか我儘なのか。どうであっても、ぼくはどこかいつも表現をしながら生きている。けれども表現できないものがとにかくここにある。それをどうとらえていいか。どう感じ考えたらいいのか。

新井奥邃という人は、少しは表現したが、結局それを使わなかったそうだ。彼は表現を燃やしたのか。そうではないのか。ともあれ、燃やす気持ちはあったのだろう。ぼくはまだ燃やしてはいない。が、ややそういう気持がして来た。

翻ってみると、表現するとはどういうことか。表現しないとはどういうことか。結局それは、自己自身、他者自身に関わっており、その自身の在り方から、そこでの出来事から、表現のする・しない、できる・できない、が生じているのだろう。だとすると、その問題はどうも奥の方にある。そして表現はしばしばすべきである。また何かすべきでない。

最近読んだジャーシルドという人の『自己を見つめる』という本があった。ずいぶん昔の本であるのに、感心することが多かった。彼は最後のところで、「共感」ということと「自己」ということをいっている。もう誰も彼のことを知らないだろう。1902年生まれとのこと。もう少し示唆されるところを見て感じ考えて行きたいと思った。

彼は科学者に近い人だ。が、にもかかわらず、あるいはだからこそ、最後のところで不思議なことを言っている。そこで彼がふれている世界は、とても孤独なにもかかわらずどこか華厳のような、パスカルが神学でみたようなものに繋がるようにもぼくには思えた。ティヤールにも、土居にも、その世界とその表裏への出会いがあったようだ。

ジャーシルドは子供の教育を基本的なテーマとした人らしい。ただ、現在は子供だけでない。大人自体、おかしなテレビやゲームによってまたインターネットによって会合によって、肯定するにせよ否定するにせよ、動かされ続けている。どこに本当の自己が人があり共感があり戦いがあり、そもそも存在があるのだろうか。そもそもどこに「表現」があるのだろうか。別にそれでもいいが、そもそもどこに私・私たちという父母の「子ども」がいるのだろうか。そのことをむしろ知りたい。


この記事へのトラックバックURL

http://app.blog.livedoor.jp/krzm/tb.cgi/50939799