ブッシュかケリーか、開票が進められていて、いま(14:50JST)ブッシュ優勢だが(CNNで246:195、Yahooで246:216)、どうなるだろうか。あと数時間で決するのだろう。〔日本時間で4日午前1時頃、ケリーが電話してブッシュ勝利が決まった──後記〕
一般には、アメリカ人以外は、どちらかというとケリーに買ってほしいと思っている人が地球上では多いだろう。ブッシュはアメリカの内側ではともかく、アメリカの外側では、アメリカの単独主義と独善性を推し進めている(と見られている)からだ。日本のように、政権がブッシュの子犬になっていても、一般人はというと、どちらかと言われればブッシュは好きではなかろう。といっても、日本では多くの人がその点を決定的に重要視しているわけでもない。それは小泉支持率が、ブッシュを支持したからといって、それがあまり「応えない」ということにあらわれている。
ブッシュになるのとケリーになるのとどちらがいいか。どっちでもいい、どっちでもよくない、という言い方をしないなら、どちらがいいか。日本の国家方針との関係でいうと、軍事化や改憲を進めたいのであればブッシュ、そうでないならばケリー、ということになりそうである。が、じつはそう簡単でもない、とぼくは思う。というのは、日本に深く連関するような外交政策・軍事政策は、ケリーになったからといって、それほど変わるかどうかやや疑わしい。だとすると、ケリーになったら、現在の方針が、表向き「通しやすくなる」可能性もある。反対にブッシュになったら、その強引さがブッシュ像と結び付いてはっきり見えるので、「通しにくくなる」かもしれない。もちろん、それどころか、ブッシュだともっとひどいことが起こってくるかもしれないが──。
ブッシュは、南部でたくさんの票を取っている。ぼくの若い友人でハーバードの大学院に行っている人によれば、こんなことがあったという。──彼が、ハーバード大の学生ホールで、ブッシュとケリーのTV討論を大画面で他の学生と一緒に見たことがあった。その際、ブッシュを馬鹿にして笑う人が多く、その馬鹿にする仕方がいかにもエリートが田舎者をみる笑い方で、何か感じが悪かった、という。彼によれば、確かにブッシュは賢いという感じを与えず、立ち居振る舞いもこっけいなところが多い。しかし、そのブッシュを鼻でせせら笑っているアメリカのエリートの驕慢さが、田舎の反発を招いているといった回路もある。そのギャップやズレもあって、インテリ嫌いの保守的な(おおむね善良な)田舎の人々がいっそうブッシュ支持に回っていってしまう面もあるのだ、という。──こう言ってぼくの友人は、こうした問題にもっと危機意識を覚えるべきだ。そうしたことを感じ取れない都市育ちのエリートは視野が狭くひ弱だ。アメリカが貧富・教育格差で二極分解している現状を変えない限り、都市エリートがいくら自分の賢さを誇っても、社会の基層・周辺に追いやられた人を動かすことはできないだろう、と述べている。その点からいうと、クリントンは、田舎育ちで這い上がってきた人だから、強く、広く人々の支持をもらうような人柄があったと、とも付け加えている。
なるほどと思わされた。それぞれの生活圏なりにいろんな気持をもっている。それは認知であり徳性でもあり、その間に互いのギャップをも引き起こしている。都市部エリートは南部や中部の生活民のようなアメリカ人たちの保守的な政治・道徳意識が理解できない。他方、中・南部の人々は、東西部の都市エリートが当然視している、スマートな生き方や倫理感覚は分からないだろうし、後者がある程度は理解している他国との関係やコミュニケーションなどの状態については前者はたぶん関心がない。あったとしてもそれはおそらく(「悪との戦い」といった)単純な物語に置き換わっているのだろう。もちろん、都市エリートの中にもネオコンや宗教的保守主義者もいるし、田舎にもリベラルな人はいるだろうが、それにしても、以上のような大きな認知圏の分割という問題はあるのではないだろうか。
もちろん、アメリカの外にいる者としては、ケリー支持者たちのブッシュへの不快感のある部分は直ちによくわかる。ただ、その不快感にはもう少し別の部分も(アメリカの内部では)ある。それは生活感覚のようなものに根ざしている。そしてその部分は、ブッシュ支持者たちの側からいうと(これはぼくはTVで見たのだが)目に涙を溜めてブッシュを応援しているような部分と対応する。もちろん、彼らが頑として強硬な力を帯び、それに対して都市の知識層が「エリート的な軽蔑感」だけでなく、一種の恐ろしい感じや徒労感を抱くといったこともあるだろう。そのようなアメリカの「内部で働いているものの感じ」は、すぐには見えて来ない。
ちょっと似た話ということになるかどうか判らないが、佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書)では、陸軍の言論検閲官となった将校とこれに反発する文化人との関係が、じつは、表立った思想というよりも、田舎出の真面目者と都市型知識人との間の一種の相互の階級的偏見ともいうべきものに根ざして増幅されていたことを明らかにしている。むろん、だから鈴木庫三がよくて、南部アメリカ人がいい、その政治判断が正当化できる、というわけではまったくない。ただ、少なくともそのような階級感覚に居直って自由であり客観的であると思うことがおかしいことには、いやしくも知識人たるのであれば自覚的であるべきだ。そこからいうと、旧制高校生流のまた官学アカデミズム内のリベラルというものは、いい気なものであり、それが恥ずかしいと思うぐらいの感覚はもつべきだ。そうでないと、21世紀になっても、ブッシュが勝ち、右翼が勝っていくだろう。つまり、問題の背後には、政治的主張というだけでなく、階級/ヘゲモニー問題があるのであり、それを解かねばならない。
こうした問題は、じつは倫理−政治論としては、一番概括的にいえば、リベラリズム(リバタリアン)とコミュニタリアンの対立、という概念問題につながっているものがある。日本においても、現在、ある程度資産を持ち自由を享受できている層が、国家・共同体への回帰に反対し、(昔みたいにただの保守層というのではなく)家族や社会的連帯が解体したただ中にいる、元来は被害者といっていい層が、却って市民社会ではなく「お上の公」を求めているところがある(こうした対立構図は、55年体制での進歩か保守か、というのとはまた違った捻れ・裂け目がある)。そのアイロニーをどう克服するか、が問題である。そうなると、リベラルな「自己決定」というだけでなくよい意味での、コミュニタリアン的な要素も導入する必要が出てくる。少なくともそういう問題への想像力が必要になる。〔04.11.09 改訂・追記〕
