活物・死物と生活世界
江戸時代の人はよく「活物」か「死物」か、ということをよく言う。一見、哲学的でもない語のようだが、伊藤仁斎は、倫理的問題の根底がそこに掛かっていることを的確に指摘している。と同時に彼は、活物かどうかと無関係に知や理によって規範提示することが、じつは「生きた」物事を捉え損なったり、そうした態度の専横は暴力や虚無に至るとさえ考えていた。──こうした感じ方は、いまでもちょっと敏感な庶民は知恵としてわかっていることだが、残念ながら、そうした生命感覚に根ざしたコモンセンスのようなものが最近は崩壊してきたみたいだ。
西洋哲学の「生活世界」という概念には、ぼくも昔、フッサールやアルフレート・シュッツが言っていることなどにふれたことがある。しかし彼らの用法を詳しくは調べなかった。が、最近聞いた専門家の話では、多くの場合、この概念は、基本的に「倫理性をもたない」概念なのだそうだ。ハーバーマスも言及はしているがちゃんと扱ってない、という。そう聞いて、ぼくはじつは内心、喫驚した──生活世界に倫理性を基礎付けなくて、どこに基礎づけるのか、と。だが、考えてみると、それはもうそういう牧歌的な?世界がもう無い、ということなのだ。
その昔、吉本隆明が「大衆の原像」ということを言ったことがあるし、左翼学生は「大衆」「民衆」といわれると切り札、ジョーカーを出されたような気がしたものである。しかし、大衆とか民衆とかいえばいい、というもんじゃないことが、判ってくる。大衆・民衆といったって信頼おけずひどいもんだ、ということが増えてくるから。それと同様に、「生活世界」も位置を失ってくるのだろう。このような変化は、現代もそれなりに感じるものだが、それは仁斎に対して徂徠が、また昔だと、孟子に対して荀子が感じたものにつながっている。ホッブズやロックが混乱や専制を克服しようとして「契約」とか一種の人為的な構成態を持ち出すのもその点に関わっている。
とはいえ、それは、生活世界が、構造的に壊れている、あるいは疎外されているのであって、それを生の基礎に「求める」ことも出来ないということとは違う。それは「求める」ことはできるのではないか。たとえば、動物や植物を育てるときにも、ある環境設定をして、そこから、生の持続可能性を展開していく。動物の場合は、そうした環境を自ら設定しようとする。それと同様に、ひとにとっての生活世界は求められており、求めうるのではないか。
活物といえば、荻生徂徠は、上の仁斎的な意味だけでなく、「世界の複雑な生成」というような意味でもっと使っている。そこから、物事の生・複雑性を踏まえての、いわば戦略的思考や方策──それを彼は「わざ」「術」などと言っているが──を展開している。この点もきわめて重要なものを含んでいる。どうも現代でも、生活世界の崩壊とセットになってか、機敏で柔軟な思考・対応のようなものも(それは想像力と関係するわけだが)、だんだん人が出来なくなっているように思える。むかしはそういう「実践人」ともいうべきひと(徂徠のいう「巧者」)がどこにもいたに違いないが、最近は、企業等の金儲けの世界以外には、そういう実践性は無くなってしまったみたいだ。ということは、そういう実践性の行く先に目的が無い、ということである。(金儲け・地位・利権といったものへの一見巧緻の限りを尽くしたしかし結局は直接的で駆り立てられた追求以外に)大きな方位・戦略が無いわけである。つまりは、生きている目的がない。生活が持続したり交代したりするとしても、そもそもその道筋が無いのだ。
むかしの人(アリストテレス)は、幸福とはよき生であり、よき生には、名利はある程度必要だが、しかしその究極のものたりえない、と述べている。では究極は、というと、彼は観想(イデアの瞑想)を挙げる。それはそうだろうと思うが、それを生活世界のプロセスと切り離して、階層化して考えているごとくであるのは、まちがっていると思う。これがいわゆるロゴス中心主義の所以なのだ。何らかのイデアが見られるとしても、しかし、倫理や美は、生から立ち上がってまた生を目指すという一種の回帰的構造をもたざるを得ないように思う。それを──つまり生を生へと──もたらす「わざ」が元来は「知」であり「行」であるのだろう。外部に対象化されたものは、「死物」になっている。死物も痕跡も重要だが、にもかかわらず、生きて知ったり感じたり振る舞ったりするのは、活物としてそうしているのだからだ。
Posted by krzm at 10:35
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> 生活世界に倫理性を基礎付けなくて、どこに基礎づけるのか
なるほど、考えてみると、ここにはなかなかむずかしい問題がある
ようですね。
日常とは何かを理論的に考えるなら、ひとまず他者の多元的な時間
の混在、というふうに定義できるでしょう。このような多元的時間
により構成されるのがシュッツの日常世界の現象学的社会学で、こ
うした構想はあきらかにベルクソンから来ている。フッサールとの
関係しか視野に入っていない森元孝の解釈はあきらかに誤りです。
だって、フッサールには多元性などかけらもありませんから。
問題はそうした多元化したシステムを統覚できる法ないし倫理はい
かにして可能か、という点です。生活世界はそもそも基礎づけ可能
なものなのか。
欧米の文脈で言えば、これまでのような各人に内在されたキリスト
教倫理による統合には限界がある。一神教としての縛りがあるキリ
スト教は、原理的に言って多元化社会のルールには向いていない。
ライプニッツにしてもスピノザにしても多元的なものの統合を可能
にする倫理というところでひどく苦労している。
これを現代の例でもっと具体的に言えば、トルコをEUに加えよう
とする際に、法や倫理や価値観にかんする擦り合わせが不可避にな
るようなもので、ちがうもののあいだに共通の法が分有され、それ
が倫理としてある程度内在化されないと近代社会はうまくやって行
けない。そこのロジックを作ろうとする際にライプニッツの再評価
が起こってきたりしている。
グローバリゼーションに伴う文明の衝突は、観念的な宗教論理のぶ
つかりあいと言うより、これまで自明のものとされ、とくに自省さ
れることなく用いられてきた法や倫理の観念を危機に陥れ、それへ
の反省を呼び招く。そこでは差異の感覚がひどく鋭敏にならざるを
得ない。にもかかわらず、それを乗り越えないかぎり、他者との共
生は到底不可能である。
ベルクソンはこれを愛のエランにより乗り越えようとした。近年の
ポール・リクールはこれを「満ちあふれの倫理」として捉え返す独
自の倫理学の構想を提起しています。
倫理というものを多元方程式の解のように思念しているかぎりで正
しい解答は得られない。真に倫理的な生きかたがあるとしたら、そ
れは――逆説的なことですが――もはや倫理などを必要としないよ
うな生きかたである。倫理なんかなしでも済ませてしまえるような
生きかた、あるいは結果として倫理を不要にする生きかた、それが
愛の満ちあふれの倫理だと、とりあえずは言うことができるでしょ
う。どうやらここにはライプニッツの予定調和説や最善説などと重
なる部分があるように思える。
もっともさすがにそれでは楽天的すぎる(笑)という気も私などは
するわけで、そこらに理路を見出すために、たとえば「笑い」など
を持ち出してみようとしたりもするわけです。笑いとは倫理の入っ
て行けないところに和合をもとめることです。
ただそれは苦肉の策でして、やはりもっと正統的に法の問題をちゃ
んと考えねばあかんなあ、と常々思っています。デリダ(およびフ
ランスの68年世代)について感心するのはそこ。他者性の問題を
つねに法にからめて考えている。そこらのデリダ思想の厚みという
ものが日本ではまるで読まれていないという気がする。なんだか新
たなるシステム論のように解読されてしまっている。オタクです。
倫理は個人や地域集団のエートスにかかわりますが、グローバル化
する社会でそれは相対化されざるを得ない。とはいえ完全に相対化
されてしまうともはや倫理どころではなくなってしまうので、おの
ずとそこに歯止めとして法が見出される必要が出てくる。
倫理への問いはおそらく法に行き着くほかはない。それは法の根源
にかかわる問題であり、それを考えるにはたんに近代法の枠内では
足らず、どうしても古代法まで遡る必要があるのではないか。いわ
ば世界をもういちど組み立て直さねばならないところまで私たちは
来ているのではないか。そんな感想を持ちました。
コメントありがとうございます。なるほど、愛と法ですね。
その場合の、法というのは、ただ実定法ではない。となると、プラトンやアリストテレスが感取していたイデアなどにも近くなってくるかもしれないし、あるいは、ブッダのダルマみたいなものかもしれない。。ただ、そう考えると却って逃げになるとすれば、批判とでもいうべきかも。。