2004年09月27日

「戦争と平和」論再考

現在の「戦争」をめぐっての、思潮の動きを受け止めているうちに気づいてきたことがある。それは、現在働いている国際間の権力や軍事の対立・紛争をめぐる議論の従来からの枠組は、結局は、欧米の近現代政治の中で成り立ってきた「戦争及び平和」論の地平/延長のうちにある。そして、それは東洋流にいうならば「覇道」論だ、ということである。

その「戦争及び平和」論は、「政治は戦争の継続」だとまではしないととしても、(とくに国などの外・相互においては)「戦争はある・する傾向のもの」ということが前提になっている。だからその「平和」というのも、要するにそれを前提にした戦争停止・抑止論を意味している(──ただし、その議論の地平には「裾野」ないし「延長」がありうるが、その局面についてはいまは措く)。むろんこれに対して、トルストイを挙げずとも、理想主義的な平和論・非戦論もいろいろある。が、それにしても、多くのリアリズムを標榜する政治論や戦争・平和論は、まずはだいたい「放っておけば戦いになるのが関係というもの」といった枠組を議論の前提においている。要するにある個体(集団を含む)の外部に危機やハザード状態を基本的に想定し、その〈付き合い〉ならぬ〈噛み付き合い〉から議論を立てているわけである(──カントの永久平和論でもそういうところがあるのではないだろうか。要検討)

これに対して、「平時をまず前提にする」立論もある。孔子は有名な「怪力乱神は語らず」の語を残している。彼は春秋時代のもう相当に無秩序な世界を動き回ったが、何度か難に遭ったときも、「天が文を滅ぼそうとしない限り、相手は自分を殺すことなど出来ない」と言っている。天は文化的秩序を守るはずだ、と考えているわけである。これがたぶんのちの「王道」論になる。おそらくそういう伝統をさらに推し進めて、孟子は、いろんな覇王たちに「王道」を高唱している。仁義の徳・道を守りそれを充実することが、軍備と専制による内外の支配堅めよりは、よほど価値的にいいばかりか、実際に天下に王たるべきためにも有効なのだ、と孟子はいう。孟子は、孔子よりはるかに甚だしい戦国時代の戦争とパワーポリティクスの世界に、その王道を説くのだから、彼の言説は観念的に聞こえる。

ただし、孟子は「天」のサンクション(応報)を説いて、その論の有効性を主張している。この点は見過ごすことができない。よく批判されるが、孟子の議論は、あくまでも「王」=為政者のための議論であって、民本主義ではあっても、民主主義ではない。が、今いったその「天」/「民心」のサンクションが「革命」に結びつくことになっているから、大きな意味では、政権交代の問題も、そこに含意されていると見ることができる。王道論を支えるものとしての、天/民心は大きい。つまり、政権交代であれ、個々の戦略上のプロセスであれ、結局は、天/民心が最終的な帰趨を握っている。そしてそれは徳をサンクションする──徳治・礼治を保全すべく動き、その動きは信頼できるものだ、というのが、孟子の立場である(この時の孟子の眼には、民は究極的には無辜の民であって、ずうずうしい大衆などではなかった)。そして、東洋(日本)思想史では、表立っては、この王道論、すなわち天/民心は結局徳治・礼治を保全すべく動くのであり、道はその恒常性に根ざすべきだ、という考えが、政治思想の伝統になって流れていく(*)。

(*)なお、日本では、孟子の道徳論はだいたい容れるが、革命論は(つまりそれが位を根から交替させてしまうところは〔とくに皇統について〕)容れない、という国学流の議論も出てくる。これは一種の伝統主義・保守主義に立つのであって、それゆえに安危に関わる部分をタブー化したのだ、と考えられる。それは、究極的なところで戦争論を排除しているのだともいえる。この「戦い排除」の保守主義は、日本の島国的環境とも共同体性とも絡んで、問題も大きい。一番の問題は、(次段落以下に述べることにも関係するが)「内だけ・ここだけ平和、外や後のことは知らない」ということに陥りがちな点である。ただし、それはネオコン流の攻撃論ではない。その意味ではいまや長所もある。国学イデオロギーみたいになれば問題だが、そうでなければ、生活保守、文化保全主義ぐらいに落ち着く。いまの自民党にはそういう懐かしい?保守派は(野中・後藤田・古賀・亀井などに尾骶骨を残しているだけで)もうあまりいないようだ。

そうした孟子の議論を、とんでもない空想論と見るか(長尾龍一氏『古代中国思想ノート』)、それともそれは観念的にとどまらず本当に現実にも有効な議論だとみるか、は問題として検討すべきである。また、それが仮りに通用するとしても、その底流や現実のうちに何らかの「覇道」が伴ったのではないかということも考える必要がある。つまり、「王道ないし徳治・礼治論」が通用することの、「結果や範囲をも含めた効用の正負」も、よく考える必要がある。というのは、王道論流の「軍事や刑政にではなく、徳・礼による」という考えが、掲げられることで、むろん、平和構築にプラスになることも大いにあるだろう。早い話、論理的にいっても、「その〔王道論流の〕考えの人が皆」であれば、戦争など皆無になることは、明白である。とはいえ、現実には、そうはいかず、悪や戦いがあるわけである──結果において、あるいはある範囲をとれば──。

だとすると、そういう要素・次元があるにもかかわらず、ただ平和論を空想的に説くことは、戦略的思考を欠いた主観主義に結果し、それどころか、悪や戦いを防止できずに引き込むことになる可能性もあるだろう。また、王道論風のよき倫理的装置・時空の想定が、かえって、裏面にアナーキーな暴力を貼り付かせて構造的なセットになっていることもありうる。たとえば、日本の「戦後の平和」は国内的にはその繁栄の裏面に相当に制度的な抑圧や破壊を伴っていたし、周囲の国外・同時代における戦争の代償として成り立っていた。また、近代のヨーロッパにおける民主主義や国際的な公法秩序は、大きくいえば、暴力をヨーロッパ外に転化することで成り立っていた(──それらの「内部状態」がよくないというわけではないが)。現代という時代は、そうした構造的な「仕切り」が取れたことにより、暴力が噴出して来ているのだ。

では、そうだから、覇道によればいいか、というと、そうともいえない。というのは、王道論が、裏面ないし他面に暴力を隠していかねないのに対して、覇道論は覇道論で、いわば、悪夢に入ったがごとく、それだけでは悪循環を起こし、そこから抜けられない可能性が大いにあるからだ。たとえば、天木直人は、現在のアメリカの戦略と、これに加担する日本の策を批判して次のような趣旨の議論を展開している(同氏「メディア裏読み」2004/9/26)。

米国の「テロとの戦い」に巻き込まれる形で日本の安全が脅かされつつある。加えて、「日本近辺における有事」もある。これら(とくに後者)に対して、《軍事的な脅威だけに着目すれば、安全を確保するには米国の軍事力に頼るほかはない。憲法を改正し米軍との軍事同盟を強化することによって北朝鮮や中国からの軍事的脅威に対抗する》というのが政府、官僚、御用学者、財界の主張である。これは一見すれば問答無用の意見のように見える。しかし少しでも冷静に考えれば、この考えこそますます日本の立場を危うくすることになることに気づくはずだ。〔要約〕

このように天木は述べ、(1)戦略的にも、莫大な経費を投じて迎撃ミサイルシステムを作ったとしても完璧な防衛にはならないこと、(2)そのような軍事費を支出することはできないし無理であること〔民生を破壊するがゆえに〕、〔こうして自分たちにとって(1)軍事的不全、(2)民生的破壊であるのみならず〕、さらに対他的に、(3)対決姿勢を強めれば強めるほどそれが相手国への脅威となって相手国を刺激する、かくして軍事競争がエスカレートしていくだろうこと、を指摘している〔要約〕。いわば、覇道にただ与することは、それ自体直接的にも有効でないばかりか、自身の「健康」を持たなくさせるし、相手との関係においても、敵対の悪循環に陥る、というわけである。

そのあとで天木氏は、土山實男著「安全保障の国際政治学」(有斐閣)の書評(坂元一哉)を引いている。この土山の本はぼくはまだ読んでいない。が、坂元一哉は、土山の言を引きながらこう述べている──「……安全保障は人間の幸せにどこか似ている……。貧しくても幸せな人がいるように、安全の十分な備えがなくても安心している国がある。逆に豊かなのに幸せになれない人がいるように、十分な備えがあっても、何かに怯えている国がある……今の米国を見ていると、強者であるがゆえにその優位な立場を失う事の不安に怯え、軍事力で敵をねじ伏せようとするあまり抵抗者の反撃に怯えなければならないという自己矛盾に撞着しているようだ」と。そのような「自己矛盾」は、《安全保障のパラドクス》といわれ、「プロスペクト理論」(何かを失うことの恐れが意思決定に与える影響を論じる)の応用から出てくるのだそうだ。もうひとつ、《安全保障のジレンマ》が言及されているが、これは、天木のいう、(3)〔=対抗や憎悪の連鎖〕のことである。
要するに、覇道論は、「敵」を正面に立ててこれと戦おうとする訳であるが、それは、自身を〈恐れ〉に向けて追い込んでいくと共に、相手との関係相互においてもそうだ、ということである。このことが起こす「失調」は、心理的のみならず、経済的・軍事的、そして何より生活世界的に、いろんな面でいえるだろう。

してみると、まとめると、こういうことになろうか。すなわち、善悪・生殺の相混じる現実というものに対して、単純な王道論は、「敵」を立てまいとする「善の悪循環」から来る、事態の隠蔽/欺瞞をはらみ、結果無責任を生んでしまう。しかし、単なる覇道論も、「敵」を正面立てる「悪の悪循環」からくるジレンマ/パラドクスに至り、やはり結果無責任を引き起こす──と。だとすると、望ましい道筋は、「覇道をも想定しつつ、しかし、王道を理念として堅持して」、前者を後者へと持っていく「プラスのスパイラル」(これは上の「善の悪循環」とはちがう)を構成すること、それが戦争と平和の課題だ、ということになる。それが(戦争と平和をめぐる)戦略的思考というものなのだろう──抽象的な言い方ではあるが──。

もう少し具体的な倫理として言えば、たしかに生起した悪や暴力に対して、抵抗はもちろん対抗と威嚇が必要なときはあるだろう。そこでは、〈道徳の黄金律〉の「裏」すなわち「自己のしてほしくないことを、相手にせよ」「自己がしてほしいことを相手にするな」が正しいこともある。しかし、それがありうるとしても、イラク作戦名のごとき"Shock and Awe"(衝撃と恐怖)によるだけでは決して「治」や「幸福」はもたらせない。プラスの局面になると、先の〈黄金律〉は「表」になり、「自己のしてほしくないことを、相手にするな」「自己がしてほしいことを相手にせよ」が正しい解になってくるし、またその回路が必須である。関係の平和や幸福は、小さな信頼や贈与により、互いを成り立せることによって構築していくものである。前者(ウラの黄金律)があるとしても、それは結局、後者(オモテの黄金律)をあくまでも基本とし必ずこれにつながるものでなければならない。それが従来から、東洋で、「武」が「矛と止む」と訓じられ、孫子でさえ、壊滅ではなく仁を目的として掲げる所以である。だから、「戦争と平和」論も、戦いの連鎖はもちろん止めねばならないし、のみならず、ただ勝利や停止だけでもなく、そうした平和構築のプロセスを組み込んで、構成されねばならない。むろん政策論としてはいろいろ議論があるだろうが、思想的な問題としては、そういうことになる。

現在、日本では、戦後日本の王道論が欺瞞性をもちまた無効であろうといって、覇道論に転轍しようとする議論が多くなっている。しかし、それがまた修羅道につながることにも、自覚的でなければならない。天木は、「戦後生まれ変わった日本という国は、米国のような覇権国とは国の理念が根本的に異なる国なのだ」と述べているが、ぼくもこれに賛成だ。自衛隊が「自衛」隊であることを──つまり前回〔9.16〕的にいうと「コヨリ」で刀を結んであることを──束縛というよりむしろ奇貨として誇るべきである(自衛隊自身にとっても)。墨子的に考えれば、「自衛」隊は、「軍」ではないものでありえ、また実際、「従来型の軍」ではないものにすることができる。「普通の国」であることは、日本の道でも使命でもない。まして、覇権の一翼を担おうとするのは、誤っている(*)。戦後の一国平和主義の無責任性(上の「善の悪循環」)に対する反省は重要だが、しかし、その道は、翻って覇道に至るのではなく、結局、覇道を見据えながらその中にあってどこまでも王道をめざすものでなければならない。そして、さらに個人的な感をいうと、吉田満の「戦艦大和ノ最期」を読んだ者としては、そこに「大和」の逆説的な使命が、また古代道教や儒教・神道にも由来するその概念が、生かされるべきではないかと、そうした事柄の行方にも関心をもたざるを得ない。

(*)アメリカに寄り添って、それで国連常任理事国になろうというが、そんなことは、望ましくもない。たとえ望ましかろうと、それは現実にも「絶対にあり得ない」ことである。だれがアメリカの票をさらにもう一票増やしたいだろうか。


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