2004年09月16日

軍事は専守防衛・国境まで、民生活動は積極的に海外へ

民主党の岡田代表(以下、岡田)の発言をきっかけに、8月3日の項で、「貢献」は武力行使でするのか非武力でするのか、という問いを考え始めた。ただ、見ればおわかりのように、例のごとく話がくどくなってしまって、言いたいことまでなかなか行き着かない。そうこうしているうちに、岡田のこの関連の記事にまた出会った。日本記者クラブで話し、「PKOでの武器使用基準は二重基準をとるのがいい」といい(この場合の二重基準は、日本流の武器制限を使い分けで緩めろ、という話である)、また重ねて、「今の憲法では海外での武力行使はできない。改憲で海外で武力行使まで含めてできるようにするべきではないか」と述べ、湾岸戦争を例に、「イラク軍を国境に押し返すところまでは、日本も一緒にやるべきではないか」と説明したという(朝日04.09.16)。

岡田は、以前見たTVでは、これは問題提起だという言い方をしていたが、どうも今回で真意がすっきりわかった。要するに、「普通の国になって、武力行使にも参加したい。そうすると(他国にも役立つし)日本のプレゼンスも上がるだろう」というわけである。しかし、この方向の考え方には、ぼくはまったく反対である。というか、戦略判断としても、歴史と将来の筋見としても、間違っていると思う。

同じ朝日の紙面では、小沢一郎前代表代行(以下、小沢)が、水害・ヘリ事故にすぐ行くべきだったといって、岡田のフットワークの悪さと党の官僚主義を批判している。これはこれで興味ぶかい。岡田の、「安定感がある」かもしれないが、官僚出身の「どちらかというと上の世界だけ見ていて思考が固定的である」という性格がよく指摘されていると思われるからだ。小泉流のサイテーでかつ危なっかしいのよりはよほどいいだろうが、この岡田の筋で、本当に人々のための平和や幸福が見いだされるのかは疑問である。よい方向に変われるなら、変わってほしいものだが、無理だろうか。。。

最初の問題にも関連するが、小沢はそこで、今後の選択について、政党問題の次元においてだが論じて、「内向きで伝統的なもの、コンセンサスを重んじる日本的な色彩の濃い政党と、オープンでフリー、もっと外向きで積極的な政党、この哲学の差が二大政党だ」と述べている。で、彼自身は、結局後者を選ぶ、というのだ。この分類もそれ自体としては面白く、その「フリー、もっと外向きで積極的」というところに、小沢のグローバリズム志向がよく出ている。ただ、この二分法は、じつは、ぼくの考えでは、単純で現実を見誤るという意味で間違っており、それが現在の種々の混迷の原因でもある。逆にいうと、その両概念を組み替えたところに出る解に、じつは「あるべき筋」が見えるはずである。つまり、本当のあるべき筋は、その二つの対立葛藤ではなく、その間の「中」であるようなあり方、つまり「内や伝統を重んじながら、しかも外に開かれている道」を求めていくことにある。それはグローカリズムでもある。(我田引水みたいになるけれど)

外交政策でいうと、《軍事はあくまでも、専守防衛で、しかも国内だけにとどめ、しかし、民生的な意味での平和活動は、積極的に海外に出ていく》、そのような道こそ日本の道だ。20世紀に出来た「普通の国」型のことをしたり、アメリカ流グローバリズムの資本や軍事の同伴者になったりして、だれが喜びだれが尊敬するだろうか。国や国民の市場戦略としても、そんなだれも欲しくないものをしたり作ったりするよりは、地球上の百姓民草が欲しいと思っているものをこそしたり作ったりすべきだ。その方が、理念的にはもちろん、国益としても正しい選択だと思う。また国内的にも、「外に出る回路」が閉じていてみんな窒息しているのだが、その出方がピストルだというのは馬鹿で、逆切れの子ども以下(大人なのだから)である。もっとそれ以外に、世のため人のため自分のためにすることがあるだろう。むろん、そのためにはいろんな隘路があるが、それを解決することに努力が注がれるべきだ。その意味でも、岡田の、武力行使へと筋を通したくて仕方がない、それで周りに認めてもらいたがっている論は、目指す方向がそもそも間違っている。

戦後の日本がした一番の「貢献」というか、世界に受け入れてもらえたことは何だったのか。生産物でいうと、家庭や生活世界のための、民生機器をいろいろ作ったこと、サブカルチャーを種々生んだこと、それしかない。ODAが軍事的でなかったのはいいのだろうが、上からいろいろ政府や大企業中心でやったことには問題も多いのだろう。むしろ、個々の人の活動でいうと、お父さんが沖仲士の親分だったアフガンの中村哲さんを始め、世界にいろいろ散って動いている人がいる。それこそ、「尊敬」すべきことだ。実際、個々の戦後日本人の国際活動は、物売りでも協力隊でもスポーツなどの指導員も坊さんも、意外に評判がいい。そうした信用を潰すことは馬鹿であり、まるで小泉である。「メダル」を取るみたいに勝って強いぞということになったら喜び、他人も尊敬してくれ、世界が治まると思うのは、幼稚園児かやくざである──それをする個々の人はもちろん結構で立派だが、世界をメダル取りみたいに思っているのは、やはり阿呆である。

言わずもがなだが、戦後日本の「思想」は9割方、まったくの受け売りのやり続けか、さもなければ、「無」とか「絶対矛盾」とかいっているばかりで、使い物にならなかった。知識人というか、子どものオヘソいじりのようなものだった。そこでは、もちろん高い理想も愛も平和ももう語られてはいない(それをいうのは今やTVで時々やられるチャリティー番組だけである)。それが大人げないといって、最近は、オヘソいじりをしないで、ピストルを持ちたいという人種が増えてきた。ぼくは職業としての警察も軍人も現在ではあるほかないし、それはそれで尊いものたりうると思っているが、ピストルを「持ちたい」とやたらいう人種は大嫌いだ。それはブッシュや小泉や金正日を見ればわかるが、子ども大人である〔自分の子どもの時を振り返っても、銃器や戦艦・戦闘機などに関心をもち、それが何かリアルな現実に関わるかにおもったのは小学校の3年ぐらいまでだった〕(*)。しかし、その手合いが実際にものすごいパワーを手にしてそれを使い出すのだから怖い。子どもなら子どもになってほしい。大人なら立派な大人になってほしい。──話がそれたが、戦後の日本は、いうなれば、理想も愛も戦争と平和も、民や子どもたちの生活のうちに、そのカルチャーのうちにだけ込められている。実際には大きな戦艦も作らず、他国のように産業や政治が軍事に掣肘されることも(一応)なかった。そのことの可能性を考えるべきである。
(*)そう書いたのだが、あとで「軍事マニア」みたいでも、すごく面白い人がいるのを知った。加藤健二郎さんだ。ここの議論はちょっと雑に過ぎた。意を汲んでください〔04.09.19記〕

戦後(近代)日本がしたり作ったりしたカルチャーや民生技術のいいものは、意外にも(というか当然というべきか)、平安文化や江戸文化につながるものがある。それがたとえ「偉大」なものでなくても難があっても、それを文化と言わずして何といおう。美的なものや手仕事はいいものが多い。技術だって、電気釜に始まる白物家電やら家庭物・生活物の技仕事はいい。しかし、ロケットなどは、いまだ人工衛星も上げられない有様で、神様がやめろといっているのかとさえ思いたくなる。そう考えてみると、何が出来ることか、何が自分にとっても人にとっても、大事なことかがわかる。だれが、日本がミサイルを飛ばすことを喜んでくれるだろうか。だから、自衛隊は、国内的にとどまるのがいい。海外的には、個々人やNGOの活動がますます重要で、それを日本の老若男女のこれからの仕事にしてもいいぐらいだ。そしてそれでは足りない部分を、土木・医療・救援・警察等を主眼とする公的部隊や組織が担うといった形に進むのが大事だろう。──そうぼく自身は思っている。現に自衛隊がやっていることもその範疇の内側ではないか。もし部隊が行くならば、「従来型の軍」では全くなく、専ら「生活世界構築のための部隊」であることを標榜して、それを徹底して守り発展させていくべきだ。そうしたことこそ、誇るべきことだ。非軍事活動にもっぱら徹底する存在であることは、日本の歴史的使命であるばかりか、現在のような暴力の連鎖の世界にあって、平和のために貴重で真に現実的な行動でもある。もちろん、それは「日本の伝統文化」にも「アジアの精神文化」にも叶っているし、どんな他地域の文化にも叶うことができる。人々が生活することをこそ大事にする営みだからだ。

したがって、憲法だとか武器輸出制限の原則だとか、いろいろ縛りがあることは、束縛ではなく、むしろチャンスだったしまた今後もそうなのである。ただし、日本だけのためでなく、他のひとびとのためにも──。勝海舟は、暗殺の横行した幕末に、「危なっかしいから、却って刀を抜けないようにコヨリで結んだ」ということを『氷川清話』に書いているが、さすが勝である。下手な斬り合いに入らないようにしたのである。しかし勝が、では危険を避けるだけだったかというとそうではなく、彼は、いろんなところに動き回って「話し続けた」のだ。それが、最終的に、江戸の町を市民を巻き込んだ流血の巷にすることから救うことにもなった。だから、その「コヨリ」に当たる憲法の条項というは、よいことなのである。そして、そのコヨリ=縛りを元々アメリカがつくったのだったら、それは好都合でさえある。親分が「殺し合いに出ろ」といっても、「うちの家訓だ」というだけでなく、「あんたの方でその家訓づくりやったんじゃないか」と言えるからだ。そしてその好都合によって、戦後日本を何かを作ったりしたりして生きたのである。それが卑屈だとか「血も汗もかかない」という人士がいる。そもそも、鉄砲を持ったら卑屈じゃなくなるという感覚がぼくにはわからないが、たしかに民生に傾注しても利潤を自分にだけ戻したら卑屈だろう。しかし、自分のみならず人の民生のために尽力するのであれば、それとミサイルを発射するのとどちらがエライのか、前者であることは明白ではないか。だから、力を民生に注いだ/注ぐということ自体は恥ずべきことでも何でもなく、よいことである。大事なのは、そのよい事を、自分のためだけでなく、他のひとのためにも役立て、ひとびとと共有していくことである。だから改憲するなら、もっと平和主義にしてもいいぐらいだ。自衛隊も、もっと民生防衛隊・構築隊にして展開すればいい。それはもちろん国是に(平和憲法はもちろん、日本文化の歴史にも、19世紀までの天皇制にさえ)叶うことである。のみならず、それは大地の上〔地球上〕に生きるひとびとが望むことであり、ちゃんとやれば自他ともに(ドンパチや威張り合いではなく)互いに尊敬や理解を高め合うことにもつながる。

翻って、逆にそうした平和原則をはずしたら、どんな修羅道に引き込まれるか、判ったものではない。いまの日本は、麻薬やハジキを持ったやくざの親分に誘われているようなものである。それについて行ったらどうなるというのだ。国を誤るべきではない。いや日本の問題だけではない。世界にとっても、専ら非軍事で活動する希有な国が失われてしまうではないか。こんなもったいないことはない。その可能性を潰して、やくざの仲間入りするのがそんなに一人前でうれしいか。彼らと背丈が揃い、ちょっと凌いでみせられるならそんなに晴れがましいか。そんなことを思っている人も国も、まったく下(げ)である。哲さんを見てみろ、あんなにチビで汚い格好をして淡々と動き回っていて、それこそ神々しいではないか。

ぼくのこの考えからいうと、岡田・小沢の意見は問題を外しているし、小泉はまったく間違っている。岡田については、期待がなくもないから、いろいろ検討してみたのだが、如何せん、目が官僚的・上空的というか、従来型の国際関係論・国際政治などといった馬鹿な知識にやられている──。とはいえ、現実の方はもっとひどい方向に向いている。同じ今日の新聞に載っているが、小泉首相の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」では、1957年に定めた基盤的防衛構想の「独立国として必要最小限の防衛力を整備する」という考え方に批判が相次いで、これに縛られてはならないという観点から、もっとアメリカとの連携を強めるとか、自衛隊の海外任務を中心的な仕事にするとか、武器輸出三原則をハズすとか、積極的な軍事力整備の方向づけをするのだそうだ。こういう考えが政府から進められることは間違いないだろう(会議の現物はここ。知り合いの川瀬氏もこの点についてふれている)。それにしても、この懇談会に入っている田中明彦については、もう分かっていたが、山崎正和とか五百旗部真といったひとは何を考えているのかなと唖然とする。ところが、あにはからんや、こうした人や小泉すら、ネット右翼からは猛然と叩かれている。何という世界だろう。ブッダでなくとも「無明」というほかはない。修羅界からみんなで抜けねばだめだ。

生活にとってもっとも内でありかつ外にもあること、もっとも右でありかつ左でもあること、もっとも低くかつ高いこと、それを求めることから解は出てくる。嘉納治五郎だって「柔よく剛を制す」「精力善用自他共栄」といっている。「暮らしは低く思いは高く」(ワーズワース)、「卑近の中に光明あり」(伊藤仁斎)ではないか。そのような方向に、文明は転換するに違いないし、そうでなければひとも地球も持たないだろう。もちろんひとりのぼく自身も。


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今朝の朝刊を見ると、ちょっと不穏なニュースが目に飛び込んできた。小泉首相の私的諮
現実に振り回される【川瀬のみやこ物語 episode2】at 2004年09月17日 18:28
 NHKが放送した従軍慰安婦についての番組の内容が、放送直前に変更された問題で、 民主党の岡田代表は16日朝、一部で「政治的圧力をかけた」と報道された安倍氏らの 国会招致には慎重な考えを示した。 ゜田氏は「国会では当然、問題にしないといけないと思う。なぜそうなの.
民主党゜田代表は野党を駄目にする [民主党、野党についての意見求む]【NewsToday-9】at 2005年01月31日 01:32
この記事へのコメント
先生、トラックバックありがとうございます。
昨日、会議の合間に殴り書きのように書いたブログですが、今回の先生のブログを拝見して、自分の考えもそう間違えてはいなかったのだな、とちょっと安心しております。僕が言いたいことはほぼ先生が論じ尽くされているのですが、特に
>つまり、本当のあるべき筋は、その二つの対立葛藤ではなく、その間の「中」であるようなあり方、つまり「内や伝統を重んじながら、しかも外に開かれている道」を求めていくことにある。それはグローカリズムでもある。(我田引水みたいになるけれど)
というのは全く同感です。あれかこれかの二者択一で解決するほど世の中の問題は簡単なものではなく、例えば「自衛隊という軍隊を持っているんだけど、積極的な軍事活動はしない」という中途半端な立ち位置が、戦後の日本の「繁栄」を築き上げたのだと、僕は思います。
この中途半端な立ち位置に我慢できないと、「ナショナリズム」なり、「普通の国家論」なり、いわゆる「大きな物語」に走ってしまうような気がします。
Posted by 川瀬 at 2004年09月17日 18:25
どうもコメントありがとうございます。でも「先生」はやめてね。「物語が問題」だな──いけないというのではなく、どういう物語かが問題──、というのは、最近痛感しています。「哲学モドキ」の靖国論見ました?
Posted by グローカル at 2004年09月19日 16:53
>「物語が問題」だな──いけないというのではなく、どういう物語かが問題
というのは僕も感じています。例えば、「哲学モドキ」さんの靖国論も先程拝見しましたが、そこでの主張はこの話題に引きつけるとしたら、「靖国の「物語」は、実は一様なものではなく、多様な可能性がある」ということだと思います。まあ、梅原猛さんの「靖国論」は、あれは世間を「挑発」するためのものであって、あえて僕などは細かい是非を問わないことに決めていますが(言い換えると、多少間違いはあっても、人々に届くであろう「物語」が僕の思っていることとあまり違わなければOKということです)。
Posted by 川瀬 at 2004年09月21日 16:31