8月になって初旬はいろいろあり、その後、原稿書いているうち、Blogの更新が長く止まってしまった。考えているときは頭が憑依状態になるが、原稿書きのときは、それを一つに方向づけているので、そこから出られなくなる。あんまり出られなくなると、固まって発想が生まれない。しかし、あんまり出てしまうと、発送が拡散してしまう。そのあたりが難しい。ともかく、現在はやや出られないように缶詰づくりというか結晶作用というかに傾いているので、Blogの方に出てくるべきものが消えてしまう。身辺雑記モードか回想モードにすれば、いいかもしれない。
で、突然、イヌ・ネコのことを書く。(記憶を縷々記すので、その点、お許しねがう。)
ぼくは子どものときおもに犬を飼っていた。しかし3歳前のころは、犬だけでなく猫もいた。そのころ、猫はたしかミーといった。板の間でヘドを吐いたら、父親に首のうしろをつまんで縁側の外に放り出されていた。「えっ大丈夫か」と思ったが、ストンと着地した。大人が「猫は高いとこから落ちても大丈夫よ」と言ったので、感心した。と同時に、その後、子ども時代、猫はどのくらい高くてもストンと安全に着地するのか(あんまり高いと無理ではないか)、上から投げ下ろされたらさすが猫でも駄目ではないか、などと頭のすみで引き続き考えていた。大丈夫であるために否定的条件を考えており、大丈夫で無くするため(危険を生じさせるため)に条件を考えていたわけではない。だから、実際に実験もしてない。しかし、見た範囲ではそのネコはどんなに放られてもいつも無事だった。それでも、思えば、あの猫がよくヘドを吐いたのは、毛玉のせいか、食料事情が悪かったせいか。あわれである。
姉(下の「浮浪児」のひとり)の話によると、ミーは、ネズミを全然取らず、代わりにモグラをよく捕まえてきていて、そのたびに、大人からバカにされてれていた。思うにその頃の猫は、ネズミ捕りのために飼われていたので、ミーは、仕事しない役立たずの猫だったわけだ。ミーはあまり名前を呼ばれることもなく、だれからもほとんど可愛がられなかった、という。ぼくも、ミーがだれかの膝の上でゴロゴロ言っていた、撫でられていた、という「ネコの幸福」(「人間の幸福」というべきか)の情景を見た記憶がない。それでも、本人は、いたってのんきそうに、よく庭の大きな石の上で昼ねをしていたらしい。〔つまり、どうも動物は投げられても撫でられなくても、トラウマと思わず、トラウマであっても溜めていない(ことがあるらしい)。さすがにえらい。現代だったら、「心のケア」をやらなきゃいかん、ということになるだろうに。〕
もうひとつ覚えているのは、隣の棟に住んでいたお婆さんが、とても猫を可愛がっていたこと。「コニー、トトまんまぁ!(コニーちゃん、お魚ご飯よ)」と言って呼ぶと、猫がどこからか現れてご飯を庭先で食べた。思えば、「コニー」なんて名前をつけていたあのお婆さんはハイカラだったのだ。そのお婆さんは、ぼくが遊びに行って、ふとオナラをすると、「『うぐいすが一声泣きました』というのよ」とぼくに教えた。それで、家に戻って、その機に「うぐいすが一声……」と言ったら、「どこで覚えて来たんだ」と笑われたものだ。不思議なお婆さんだったな。たしか高橋さんといった。
これも姉の話によると、コニーは、いつもたいていウトウトと目をつぶっていることが多かった。高橋さんおばあさんは、それをみると、「ほら、コニーがお祈りしているよ」と、ぼくらに言っていたという。高橋さんは敬虔なクリスチャンだったらしい。〔このことはぼくはおぼえていなかった。ぼくは「おなら」で姉は「おいのり」である。なるほど視点も概念も3歳前児とは違うなと、聞いたら感心した。〕
憶えているもう一景は、その「コニー」が他の猫と出会ったときのことだ。(普段はうとうと眠っているのに)突然、ものすごく背中を盛り上げて、ふーっといって、猫同士で、睨みあい、睨みあいし、挙句、フニャラ、フニャフニャ、ガァーと取っ組み合いながら外の柱の上に登ったり走ったりしてわけわからなくなった。その形相と取っ組み合いの激しさには感嘆した。最近は、そういうのがあまり見られない。残念である。思うに、猫が眠っていたり、喧嘩をしていたりする。そんな情況はなぜか幼年期と大いに結びついている。たとえば、「庭の大きな石」といえば、ぼくは、その石の上によく、立派なトカゲがよく背中を陽光に見せびらかすようにして日向ぼっこしていたことを憶えている。それをぼくはその後、なぜか何度も思い出した。それは何だったのだろうか。あのトカゲたちは誰だったのだろうか。
その後、ネコは何故か記憶から消えている。居なくなったのではないか。これに代わって記憶に出てくるのは、黒白の斑のイヌで、「ラミ」と言った。どうしてラミなのか知らない。少し洋犬の入った雑種だったが、もらった犬かもしれない。やせて眼の大きな、白と黒の貧相な犬で、どうにも愚犬だった。それでも、子どもながらによく遊んでもらった。ラミを連れてきょうだい三人で浮浪児のような服を着て並んで明るく笑っている写真が残っている。その貧しさと明るさをみれば、ラミと付き合った──ラミに付き合ってもらった部分が多いのはわかる。
写真では子犬だったが、もっと大きくなった記憶がある。そして、彼が台所の外の土間で、みそ汁のぶっかけご飯をもらってガツガツ食べていたのも憶えている。ぼくらも浮浪児同然だったが、犬も今の愛玩犬のようではなかった。犬は何でも食べた。「ラミは馬鹿だ」とは大人たちがよく言っていた。実際、雑種だろうと何だろうとほんとに利口な犬はいるもので、馬鹿な犬だったことは確かだろう。ただ、おとなになってからふと、その犬のことを思い出したとき、「ラミは馬鹿じゃなかったんだ」と気づいた。
というのは、ぼくらはラミを外に置き放しにしていた。彼とはあんまり会話をしなかった。しかし、もししばしばラミと話していれば、彼は(すごくとはいかないだろうが)もうすこしは利口になっただろう。ぼくは大人になるにつれて、話しかけながら対話的なやり取りをしていくと、どんなに動物が(人間もだが)賢くなるものかを知った。動物だってこちらに何かを教えるほどになる。もちろん程度はあるにしても、少なくとも無いものがあるほどには、変化するのである。逆に、コミュニケーションからまったく放っておかれると、動物も人間も、停頓してしまう。(よほど独習を憶えたあとは別である。停頓の度は、生活から浮き上がりがちな幼若および老年には、その程度は甚だしい。)だから、ラミは馬鹿なのではなく、ぼくらがラミを馬鹿にしたのだな、とふと気づいたのだ。(続く)
