2004年08月03日

「貢献」は武力か非武力か

民主党の岡田代表がアメリカで、海外派兵などをするのは、憲法改正してからであり、憲法改正して、国連主導のもとで武力行使もできるようにすることが望ましい──そうしない限りは、派兵すべきではない(それは憲法違反になる)──という趣旨の発言をした。このあたりは、たんに政治や政策の議論というより、倫理や政治をめぐって根本的な問題に関わると思うので、少し考えてみる。(以下敬称略)

岡田のその議論は、岡田や民主党のある部分の外交安保論者の以前からの持論でもあるらしい。これに対して、小沢は、憲法改正しなくてもPKOを始め出来ることがもっとある(軍隊とは別組織を作ってそれを出そう)、という考えらしく、岡田が短絡的に過ぎる、という趣旨の批判をした。両者が、立ち入ってどう違うのか、微妙なところはぼくは調べていない。ただ、岡田の議論は、彼らしい原則主義的なものであることは確かで、そこには「現憲法下では、イラク撤兵すべし」という命題と、「憲法改正すれば、かつ国連により正当化されるなら、(イラクだろうと)どこだろうと兵を出すべし」という命題と両方がウラハラに含まれている。これに対して、小沢は、彼も普通の政治家よりは筋を通す方だが、それでも岡田よりは、中間的なあり方を考える議論をしている。小沢は横路と相談してこのあたりの持論をまとめたらしいが、それが(武力行使の)「歯止め」をつくることになるのか、それとも「呼び水」を通すステップつくりになるのか、それがわからない(要、検討・シミュレーション)。これに対して、岡田の議論は、はっきりしているので、ここでも追って考えることができる。

岡田の議論のうち、国連主導を強調する点については、いまのブッシュとそんなに組んではだめだと思っているぼくとしては、ある程度評価する。世の中には、逆に、「アメリカと組んでこそ中国が掣肘でき、世界に参加できる」といった読売新聞によく見られる論者が相当いる。その論者は「寄らば大樹の陰で、国益になる」というのか、「(少々アメリカが無謀であっても)その危機を梃子に日本がもっと「力」が持ててマッチョになれるのはいい」というのか。どちらにせよ、ぼくは、その考えは、市民倫理的には不賛成だし、国家政策としてもじつは「国を売ることになる」と考えている。だから到底賛成できない(#1)。
(#1)むろん、逆にいつもただ宥和主義を取ればいいというわけではなく、イギリスの首相チェンバレンのappeasement(譲歩・融和政策)のため、チェコは滅びヒットラードイツが栄えることになったし、カーターではなく強面のレーガン、父ブッシュのときに冷戦が崩壊していった(冷戦崩壊の原因はそんなに簡単だとは思えない。が、軍事/国際戦略的にはそう捉えうる局面があることは事実だろう)。そうしたことがあるにしても、フセインの問題やテロ対策は、ヒットラーとはもちろんクレムリンの問題とも違う。まして、威嚇を超えてぶっ放すのに、やすやすと乗っていいことはない。ブッシュが尊敬されていないのは周知だが、アメリカ人にとって911の背後にあるものがヒットラーに重なって見えたとしても(それは間違っているにしても)少しは理解できる。しかし、日本にとって同じではないはずである。その日本がブッシュの「蛮行」に寄り添うのは、ブッシュ以上に思考と道義を欠いている。そんな国を、だれも尊敬するはずはない。最大限憐れんでくれるだけだろう。
これに比すれば、岡田の議論は、当然とはいえ、だいぶいいとぼくは思う。それを岡田がアメリカにわざわざ出かけて行って言ったというのは、いいのかよくないのかわからないが、小泉のように向こうでシッポをちぎれんばかりに振っているのに比べれば、アメリカの面前でそれをよく言ったというべきなのだろう。

とはいえ、寺島実郎のように、「アメリカとは協調・対話はしても、随順しては決して未来は開けない。アメリカの犬になるのではなく、アジア諸地域やヨーロッパとの結びつきを独自に育てた戦略をもつべきだ」ともっとはっきり立論する考えもある。石油も穀物もみんなアメリカの世界戦略のなかのズブズブに巻き込まれて、土地は荒れ、ひとは宦官のようになっている日本が、果たしてもはや、寺島のいうようなことを本当に出来るのかとは思う。しかし、少々困難でも、その方向を持たなければ先は無い。だから、ぼくは寺島の考えを支持する。そしてこの寺島の考えに比べると、岡田はまだ足りない。岡田は、国連といいつつも、固い顔をしてアメリカでしゃべくっている。その顔は小泉に比べればまじめでいいが、どうもヨーロッパもアジアも、そしてこれらの地域が担った文化や歴史についての想像力も、あまり感じられない。はたしてどうなのだろうか(#2)。不真面目に、種々の機をトリックに武力に擦り寄るのがよくないからといって、真面目に武力に進むのがいいということはならない。
#2 少し以前の発言で岡田は、靖国問題を捉えて、中国等との不和をもたらすがゆえに国益に反するという議論で小泉を批判している(2004.2.10予算委員会)。右派イデオロギー派はこれにずいぶん疑念をもったらしい。岡田のこの理由づけがいいのかどうかわからないが、彼のアジア論にかかわることは確かで注目される。ただ、まだぼくはよくわからない。

国連を強調するのは、正当化の手続き論である。またアメリカかアジア・ヨーロッパかというのは、形式的には地政学的な議論である。が、じつはそうした議論は、それだけではじつは済まない。たしかに、国連だとより多くの承認が必要で、アメリカだけだと超大国単独だという違いはある。そして多数に拠る方が、歯止めがかかってリスクが少ない、というぐらいのことは言える。しかし、国連決議があれば、それが「いいこと」だとは限らない。反対に、もしもアメリカが本当に「いいこと」をして、国連がそれに遅れをとっていることだって論理的にはありえ、アメリカと一緒に動くのがいいなどということもあるかもしれない(実際、今回がまさにそれだと思っている人もいるだろう。ぼくは、それには反対だが)。だから、問題は、結局、「することの内容」である。つまり、国連主導であるかどうか、だれと組むか組まないかというより、「何をするか」が大事である。「何を」があるから、「だれと」が出てくるのではないか。手続きや結合は大事だが、それにしても「何のために」「何を求めて」そうなのか。そこのヴィジョンが提示されずに隠れているのはおかしい。

問題になるのは、端的にいって、「武力というものをどうみるか」という点である。岡田は、武力を特に重んじるとはいわないが、それを容認するといい、そして、専守防衛か海外派兵か、という問題についても、現在のようなグローバルに状況が入り組んだ世界では、一国平和主義的な、一国の仕切りの内・外で防衛か攻撃かを決めることはできない。だから、もう外に出て行くべきである、ただしそれは国連によって正当化されることが必要、という論理らしい。たしかに紛争や戦いに際して、一国の仕切りが妥当しないというのは、ぼくもそのとおりだと思う。様々な問題の形態も現在では、入り組み広がっていて、それを国の仕切りの内・外では対処できないことは多い。むしろいっそう「国境の外に出」ねばならないだろう。ただし、岡田の議論は、議論が大事なところですっ飛んでいる。それは、その日本から外に出るものが、なぜそもそも武力=軍であるべきなのか、という点である。

このあたりから、「どんな行為」をするか、「ひとのために何をすべきか」といった倫理的な問題になってくる。「貢献」というのは奇怪な語で、contributionの訳語だろうか。たぶん外交や戦略などの用語なのだろうが、そのおかしな国際関係か何かを語る用語の下に、じつは倫理的な問題がかくれている。というか、国際関係とか政治云々といっても、結局はひととひとの倫理というか、それならまだしも、しばしば、こうしてやった、やられた、顔をつぶされた、顔を立てた、札びらを切った、取られた、腕まくりをしてみせた……といった、(一見スーツ着てフランス料理で乾杯しているみたいでも)結局やくざのふるまいみたいなものが基礎になっていることには、本当のところ唖然とする。──話がそれたが、「貢献」というのは、倫理的な地平でいうと、要するに他者に対してお役に立つとか、何らかの責任をもつ・取るといったことだろう。政治や外交みたいな話でも、根は結局そういう人と人のやりとり・振る舞い、といった世界に繋がっているのだろう。

実際、岡田は、問題をそうした次元に据えて、TVで「ヒットラーなり、湾岸戦争のときのクェート侵略なり、もしもだれがみても悪い存在が出て来た場合、それに対して武力行使をしないこと(あるいは誰かがそれをするのに、自分は参加しないこと)は、無責任ではないか。血と汗を流さなくていいのか」と述べていた。たしかに、凶悪者の暴力がある場合、まったく「拱手傍観」していては問題である。「お金を出す」のも、(重要なことだが)それだけではその場合の当事者的な倫理(的圧力)にとっては不足であることがある(*1)。では何を「する」か。このとき、「非暴力で立ち向かう」ことは、ただ自分がやられるというだけであれば、自己犠牲を覚悟しその結果を引き受けることで責任は取れるだろう。しかし、自分はともあれ、誰か他者が犠牲になる状況であれば、たんなる非暴力は、結局手を拱いてその凶悪者の暴力を止める働きをしないことになり、犠牲になる他者に対して責任ある態度ではないことになる。従来の日本の「一国平和主義」がその種の無責任とひとり身奇麗であるかのごときナルシシズムというか独善を孕んでいたことは明らかである(これは、戦争に参加しなったから独善だという意味ではない。朝鮮戦争であれベトナム戦争であれ、日本はじつは構造的には戦争によって繁栄していた。だのに、うちは平和だという顔をしていたのは変ではないか、という意味である)。
(*1)ただしここに働く「倫理(的圧力)」は、後述のようにいつも妥当するものではない。その「不足」とは何かをよく吟味しなければならない。

他者における暴力に対して立ち向かわないことの無責任の度合いは、(国境を越えて他者が縦横に現れてくる)現在のようなグローバリゼーション下ではいっそうあらわになる。現れる暴力を見過ごすことはできない。だから、たしかに「力に対して力を」という局面はあり、その必要もあるだろうことは認められる。とはいえ、「みながそうすべきなのか」。あるいはそれが「つねに」有効なのか。そもそも、責任を取る(「血と汗を流す」?)とは武力行使を担うことだけなのか。「武力ではない立ち向かい方」が(ただ金を出すというの以外に)あり、それは意外に重要なのではないか。「拱手傍観(ないし金を出す)」でなければ「武力行使」というのは飛躍がある。「その間」があるのではないか。

現在の地球を大きな町だとしたとき、町から警官を無くせ、警官にピストルを持たせるな、といっても無理だし、やはり無責任になるだろう。警官は必要である。ただ、それでも、警官が居ればいいのか。みんな警官であるべきなのか。ドンパチに出ないと無責任なのか。つまり、「本当に町を平和にする」ということが目的であり課された責任だとするとき、たしかに、誰もそれに立ち向かわないのは問題である。それに立ち向かわねばならない。そこで、起こる暴力に対してこれを銃をもちつつも身を挺して抑止するならば、それは尊い責任の取り方だろう(パウエルなんかはそういう言い方をする)。しかし、それだけで町は平和になるのか。それは責任の取り方の「ひとつ」なのではないか。たしかに、銃によって立ち向かうことは、時には決定的に重要なひとつかもしれない。しかしつねにどこでもそうだとは限らない(*2)。だからそれは「ひとつに過ぎない」。つまり、銃によるような仕方は、責任の取り方として、必要ではあっても「限られた」ものである。ほかに、「銃によってではなく立ち向かう仕方」はたくさんあり、じつは、それなくしては結局、町は平和にはならないのではないか。
(*2)イラク派兵のおかしな点は、それが「決定的に重要だ」〔=大量破壊兵器がある云々〕と言われながらも、じつはそうではなく、じつはアメリカという「親分」の力関係を無視できない「子分」「小親分」が、脅されたり阿ったりしてそこに調達されていることである。

以上は、武力が有効に働く場合、しかしそれも有限であることを述べたのだが、それだけではない。そもそも武力が無効であるか、さらには平和に対して否定的に働く場合もありうる。その場合は、以上の責任論は、じつは裏返ってしまう。つまり、もしも「力に対して力を」という手法が、悪循環を生じたり、「平和」のために逆効果になる局面があるならば、銃を取ることは、結果責任を裏切ってしまう。そしてその責任の取り方は、心情倫理になってしまう場合さえある。(ネオコン好きの人は、たいてい、じつは世界は結局、力だという一流の「リアリズム」を強調するが、と同時に、その力に拠らねばならない/拠るべきだという(ぼくに言わせれば)「心情倫理」とがアマルガムを起こしていることが多い。だが、ネオコンのきらいな抽象的な平和主義と同様、じつは冷静な現実感では無くなっている。)

武力だけではない金力についてもそうだが、世界がもっぱら腕まくりや札びらで出来た威嚇や誘導のシステムだと思うような考えに取り憑かれると、それらが無効ないし否定的に働く局面は、みえてこなくなる。しかし、そうしたことは大いにある。そもそも考えなければいけないのが、現在の対「テロ」戦争を始めとする地球上の治安状況を、20世紀の帝国主義時代の戦争と類比するひとがいるが、むろん重なる点がある程度あるにしても、はたしてそう十分に重なるものだろうか。現在の対「テロ」戦争や治安の悪さは、覇権を取ろうとする者同士の戦いだろうか。(続く)


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