アリストテレス『ニコマコス倫理学』は冒頭で、「どんな実践も技術も善を求める」「万物は善を希求している」といい、そして「その善の最上のものは、だれもが『幸福』だという」と述べている。アリストテレスは、その幸福の希求をおおむね肯定して議論を進める。ただ、その幸福には種々ある、として、幸福とされるいろんな種類の生活を論じていく。
少し前、原始仏典だとされる『スッタニパータ』を読んでいたら、そのある章が幸福論であることに改めて気づかされた(中村訳「こよなき幸せ」、漢訳「吉祥品」)。その章は、「多くの神々と人間とは、幸福を望み・思う。最上の幸福とはなにか」という提起から始まる。そして、「生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」「いかなる生き物生類であっても、……目にみえるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くにすむものでも、すでにうまれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」と述べている。
「幸せであれ」というのは、言語の用法としては少し変なようだが、ブッダが提示する涅槃も「最上の幸福」だとされるのであるから、そのことも含めて、ブッダが、自他幸福であれかし、という悲願のようなものを抱いてことがわかる。それはまた万物自身の願いだとも、やはり捉えられていた。幸福の内容はともあれ、「存在者たちが幸福を求めている」という認識自体は、アリストテレスであれブッダであれ、彼らはそれを分かっているのだった。
なぜ幸福を求めるのか。それは生きものであることと関連がある。石コロもある方向に動くが、それは幸福を求めているわけではない。しかし、生き物になったとたん、植物であれ、小さな虫であれ、自分という生き物にとっての、よき環境であれ何であれ、何かの幸福を求める。動物はもちろん、たとえば、ネコは気持のよさを求める。ひとも、やはり自分の生をよきものにしようとする。その「よき生」は、とくに人になってくると、もちろん他人とある程度は同じ部分があっても、さらには相当に違ってくる。それはぼくらの経験する通りである。その幸福の「ある程度同じ部分」でさえ、時には人によって真っ逆さまである場合もある。食べることが幸せの人もあれば、食べないことが幸せの人もいる。つまり《幸せの内容》はひとによって多様に分節化していく。ただ、多様に分節化しているからといって、それが求められていないわけでは決してない。幸福は明らかに求められている。
《幸せとして感得する領分》も、場合によって違いが起こってくる。たとえば、少し変わった見方かもしれないが、(通常の個人としての)自己の身心の内部の幸福を考えてみよう。そのさい、身心の内部の在り方、その幸福の求め方は一様ではなく、ある部分の幸福を追求するために、別の部分の不幸を無視しているなどということはよくある。また、身心の外部を視野にいれて考える際にも、やはり幸せの識域にはひとによって違いがある。幸せが、もっぱら個体としての自己自身に全く完結したようなひともいれば、極めて自己中心的でありながら且つ大きく他者をそのために巻き込んでいるようなひともいる。茫洋と大きく無中心的なひともいる。あるいは、他者が中心になって動いており、自己がそのために出ていってもう戻ってこないようなひともいる。さらに、一見するとその人自身は不幸と見えるような自己犠牲をみずから生きるひともいる。とはいえ、それはまた大きな次元でその人にとっては幸福かもしれない。ただ、それをじつはそれも自己完結的な幸福に収束するものだと捉えてしまうのも少し無理なところがある。
自己を完結的な中心だと堅く感じているような人は、たいてい自己の身心の内部の多様性も単純に一元化している場合が多い。だが、注意すべきだが、幸福を感得する際に自己が自己完結的に捉えられているとしても、それがたんに先天的・生理的な普遍的構造から来るものだとは必ずしもいえない。そのような自己の背後には、種々の幸福をもっぱら「私」に集中して認知するような、そのひとが置かれた社会組織・思想組織の仕組みがたいていある。その仕組がそのひとに一種「取り憑いた」ようになってその固定局限した「私」をもたせ幸福の私への集中を生じているのである。しかし、動物をみても植物をみても、たとえ自分の幸福を求めていても、そう簡単にそれが自己だけで完結して他者を度外視するような仕組みにはなっていない。その反対の自己犠牲もおいても、状況や思想においては、ひとはあたかも容易かのように従容とそうすることがある。
ともあれ、いろんなバイアスや重心を含みながらも、《幸福の領域》は、自己だけでなく他者をも含んだような広がりの展開のうちにある。幸福には複雑性がある。先に、幸福を求めるのは生きものであるからだ、と言ったが、そもそも生き物は、とくに動物などは個体としては比較的短時間で死ぬようになっているのだから、そこにも、当然、幸福をめぐる様々な贈与の弁証法があるにちがいない。犠牲の問題もそれとかかわっているようだ。とはいえ、それにしても、やはり生き物は幸福を求めているのである。
このように、内容においても感得する領域においても複雑ではあるが、しかしともかくその幸福を生き物は求めている。だからこそ、古来から「万物は幸福を求める」と言われたわけである。ところが、そこでとらえられていたものは、近代になって忘れ去られたか置き換えられてしまったようだ。というのは、善さやあるべきもののとらえ方が、しばしば個々の生から離れて取り出され、さらに単純な基準や秩序に還元されるようになったからだ。そうすると、人・物がそれぞれに何か自分たちの生にとってよきものを求めているという「様々な生の姿」が見えなくなった。
すなわち、人々の生を一定の義務やルールによって規制する規範論──現代の経営学だとcomplianceなどということばにあたるかもしれないが──が全面に出て来て、その残余が「自由」のブラックボックスに入れられた。このことは、人々を「自分たちが一体何を求めているか」を、(何かの宗教倫理にでも裏打ちされていない限りは)見失わせ、畢竟は、国家社会の規範に従わせるのか、市場社会の利潤原則に己れを取り憑かせるか──先ほどふれたよう自己を単一の実体のようにとらえる感覚もそうした「あらまほしきものの単純化」とセットになっているのではないかと思われるが──、いずれにせよ、幸福についての内省と問いを失わせた結果になったと思う。
このような問題に対して、功利主義(utilitarianism)は、問題に対処したとも問題をいっそう失わせたともいえる両義的な働き方をした。功利主義は、むろん幸福を語り、その自他における最大化を議論したわけである(*)。そのことの意義はもちろんある。↓
【(*)ちなみに、utilitarianismの「功利」という訳語は、伝統的な漢語の「功利」という語感をまったく踏まえていないものである。漢語で功利というのは、徳性や他者への配慮を度外視し、自己の利益と業績を求めたり、これを法家的に管理したりする在り方を言っている(と思う)。utilitarianismが、そうしたものに転化しうることは確かだが、utilitarianismは元来、幸福(利益)の配分・調整を図ろうという考えだから、漢語的な「功利」を必然的に含むものではない。そこからすると、(経済学のように)効用主義とでもいう方がまだいい。効利主義や交利主義ならまだよかったかもしれない。他方、明治初期に、utility「利」、utilitarianism「利学」などと訳したのには、仏教の「利」概念も勘案されたという面もあったようだから──利他、利己、自利といった語はその伝統を負っている──、それだったら、utilitarianismは利益(りやく)主義とでも言ったらよかったかとも思われる。いずれにせよ、「功利」は、rightが、権理とか権義とか言われていたのに、これを「権利」にしてしまったのと同じぐらい阿呆な言葉遣いである。とはいえ、その阿呆さは、当時の「功利」や「権利」イメージそのものの浅薄さが投影されて定着したのだから、もって瞑すべしというべきか。】
↑しかし、その幸福観は、幸福の一般的な配分を考察するものである。むろん、そうした配分はとても重要な問題である。たとえば、同じ世界に生きている、ある人の幸福があまりに大きく、他の人の幸福があまりに小さい場合、それを何らかの仕方で再配分しようとする要請が出てくる。幸福の資源が有限であるならそれは必然的だし、あるいは仮りに有限性が問題にならなくても、同じ人間だと感じられている限りやはりそうだろう。このような幸福の配分の問題は、まずは、ひとの幸福のいわば必要条件のようなものにとって重要である。人の基本的な幸福の可能性が欠如/剥奪されているときに、功利主義的な議論を正義論と結びつけて議論する必要は、したがって倫理的には──また現代法的には──絶対にあるだろう。つまり、それは憲法にある「幸福追求権」──生存権以下の基本的人権にかかわる問題になるからだ。
が、にもかかわらず、通約された幸福の一般的な配分が充足されたからといって、ひとが必ずしも幸福になるとは言えないことも、同時に知るべきだ。というのも、衣食足りて礼節を知る、とも言うが、しかし、衣食住足りたあとでも、人は生き甲斐を失ったり死にたくなったり、(パンを盗んだジャンバルジャンや永山則夫「無知の涙」とは違った意味で)──「小人閑居して不善をなす」のかカミュのムルソーのようになるのかしらないが──犯罪を犯したり、人を殺したくなりさえするからだ。したがって、功利主義は、幸福の剥奪問題や必要条件問題については、有効であっても、それ以上の問題については、十分有効ではなかった(とぼくは思う)。(もちろん、もっといろんな考え方でぼくが知らない展開がたくさんあるに違いないが、ここでは一応の話。) 言うなれば、ひもじいなかで、ミカン箱の上で勉強していた子供に、そうだろうそうだろうと言って、どんどん飽食にしてやりヒカリサンデスクとゲームを買い与えてやった。そしたらその子は幸福になるか。そんなに簡単なものではない。
ここには、功利主義の、幸福の「最大化」というアプローチの過誤と、また功利主義は、幸福に多様性や次元の違いがあるというものの、その次元の認知や多様性についての思考と実践の不十分さがあるようである。別の局面からいうと、功利主義の幸福の「一般性」という観念自体が、ある程度の有効性はあるにしても明らかに限界を含んでいる。ということは、そもそもある幸福の「限界」という問題について、功利主義がはたして十分に考えていたのかはいぶかしい。
幸福は、個々の生き物が、自分自身をよきものにしようとすることに関わる。もちろん、花や樹を育てるならそれなりの一般条件の充足が必要である。が、それでも「その花」「その樹」を見なければ、花も樹もちゃんと育たない。ましてや、ここに生きるのは動物であり、それぞれのひとである。だから、広く客体面からいって、要するに「幸福の複雑性」という問題に功利主義はそれほど有効な接近法を示せていない。そうして他方、この問題の核心には、幸福の主体面としての人格というか「ひと」という問題がある。幸福の複雑性の根には、生き物が、ひとがいるのだ。また、この複雑性はただ拡散しているのではなく、ある限界をもち、次元をつくったり他に転換したりしているのだが、そうしたことについても、まだまだ十分に考えられていなかったのではないか。(以上の、功利主義批判の問題はぼくはまだ従来の所説を十分検討してないので、いまはちゃんとしたことが言えない。さらに要検討)。
子供は、与えられる物自体がうれしいのか。まったくそうではない。その物によって、自分が生きる感じがすることがうれしい。また、その物を介して、自分というひとを見ているひと、承認してくれているひと(びと)がいることが重要で、そのことが子供にとってその物を意味づけている。だれでも、本当にうれしい(贈り)物であれば、どんなささやかなものでも「あのひとがぼくにくれたものだ」と思うではないか。あるいは「このものをあのひとに見せよう」と思うのではないか。
何らかの物の価値をたとえば、物的(さらには商品的)価値から来るものと人格的価値から来るものと両面からとらえてみる。すると、前者を介して後者が存在する局面はもちろんありうる。だからこそそこに物があるのだ。とはいえ、前者だけに後者を置き換えてしまうことはできない。もしそうなったら、そこに倒錯がある。あるいはもう「ひと」はいなくなっている。少なくとも贈り物の場合、そこでは「贈ったひと」は消えている。そのとき、「贈られたひと」もそこからたぶん無くなるのだろう。
格好いい女性/男性がいて、宝石やいい服を貰ったか得たとする。そして彼女/彼は、それで「これであのひと(たち)がふりむくわよ/ぜ」と思うかもしれない(こういうことはよくわからんが)。この場合でさえ、その物をめぐる価値は、「もの」それ自体ではなく、「ひと」によって底礎されている。およそ価値──「よさ」というものは、それに関心をもつ「ひと」がいて生起している。
もとより、天地にとっては、石コロもダイヤモンドも、人も蛇蝎も資格に差異はない(この考え方は、日本思想ではよく出てくるが、西欧的ないしキリスト教的ではないかもしれない)。ただそれでも、ひとは価値(よさ)を求めて生きる。それは生き物が生きるということの仕方である。幸福は、生きるということ、ひとである・あろうとすることから出て来る。
すると、翻って、A)死んだら同じ、億万年の物差しを取れば同じである。だとすれば、幸福の問題を問う必要はないという考えも出てくる。が、そうではないし、またそうすべきでもない。なぜなら、すでにひとは生きているからだ。幸福はひとの在り方に結局は依存するに過ぎないから、それを考えることは、無駄だと生きている者が考えるのはおかしい。しかし逆に、幸福はひとの在り方に結局は依存するのだから、B)生はどんな在り方であろうとすべて意義がある──ひとに関わるものであるゆえにどんな幸福もよい、といえるだろうか。しかし、そうではなく、そうだとすれば、それも幸福の自殺だといえよう。
たとえば、裸の王様の話ではないが、自分は価値あるものをもっている、自分はよい、と思っているが、それは、ひと(他人)がよいと思っていることに支配されているに過ぎないことも多い。これも幸福か。──ある程度、ある条件においては。しかし、これが「そのひと」に結び付いていないのであれば、やはり幸福とは言えない。あるいは、似たようなものだが、ひとが何かの幸福にものすごく「執着」しているとする。そして何かを得ていると(信じて)いるとする。が、その極限において、そのひとはむしろ対象に支配されており、もう「ひと」ではなくなっている。それは壺の中に手をつっこんで中身を握りしめて手が抜けなくなった動物と同じだ。こんなときには、少しは先ほどの天地の観点や「無」を思い出すべきである。が、それは結局はすべてが無であるというためではなく、手をゆるめること、そしてその握った手にあるものを、少しは誰かに渡すためである。
以上のようなことを考えると、幸福の問題には、「自己実現」や「徳」の形成などの枠組をもつ必要がどうしても出てくる。それは、学問・思想としては、現代の教育や大学などで行われてきたものではむしろ全くなく、古代中世的なそれの方に近づく。ただし、西欧にも流れているインド・アーリア的思想におけるこうした伝統は、どうも結局のところ「自己論」であるようにぼくには思える。しかし、何でも「世界と自己」という枠組でとらえるのも、先にも示唆したように、実は、一定の社会関係・世界関係の歴史的産物なのである。ぼくは東アジア人だからかどうかしらないが、幸福の問題を、もっと最初から最後まで自他相関的なモデルのうえで考えた方がしっくりする。そうした面からも、従来の議論の地平は考え直す必要があると思っている。アマルティア・センの議論も、幸福をひとが不幸を乗り越えて公共的次元に関わらせるものと捉えることができるが、彼が述べている選好や選択についての考察も、以上の延長でさらに咀嚼していかねばならない。
