2004年06月20日

「ひと」と「人間」

昔、ハイデガーを読んだとき、ひとは Daseinであり、いま・ここに実存している者である。しかし、それはしばしば周囲との関係によって埋もれている。その、Daseinを自覚させなくする一般的な人間がdas Manである、とされていた。そしてハイデガーでは、むろんDaseinが本来的で、das Manは頽落体なのだった。いま、もとの文に直接あたりもしないで書いているので違っているかもしれないが、大づかみなところでまあいいとして下さい。

で、その当時の版では、das Manは「ひと」、Daseinは「現存在」などと訳されていた。しかし、これはおかしいのではないか、と最近ある機会でふと気づかされた。Daseinの立場からいってひとを頽落させひとが空間化されるような存在者の地平とは、「ひと」ではなく「人間」ではないか。というのは、「人間」とは元来、仏教語でよく使われて、人という在り方、人の世みたいな意味である。また「人間(ジンカン)いたるところに青山あり」「人間万事塞翁が馬」というが、この場合も人の世というような意味である。こうした「人間」は「世間」という語とあまり違いがない。(面白いことに、その「人間」が日本では、人というものの一般名詞になった。「人」のことを「人間」と言っているのは、東アジア漢字文化圏では日本だけである)。「人間」が元来はそうした一般化・空間化された人なのであれば、das Manは「人間」でぴったりだといえる。

他方、「ひと」という言葉は、おそらくは、「ひ」(霊・日)と「と」(ポイント)の意から来るとも思われる。つまり「ひと」とは、存在のうちにおいてまさにいま・ここに止(とど)まり、それを機として生きるものである。それは、ハイデガーの言葉ではどちらかというとDaseinの方に近い。こうして、言葉に溯って考えるならば、Daseinに近いのは「ひと」の方、das Manに近いのは「人間」である。してみると、das Man, Daseinについての従来の訳語は、日本語の元来の意味からいうと、むしろ交差的に捻れてしまったといえる。

ただ、和辻が『人間の学としての倫理学』などでも言っているが、「ひと」は、他者のことを言い、さらに「人の目を気にする」などと世間的人々のことをもいうようになった。「ひと」もそうした展開をもつ。だから、「ひと」のそういう用法を考えるならば、das Manを「ひと」に当てるのも間違ってはいないといえる。が、そのような展開があるにせよ、もしも元来の語意を洗い出すならば、いま述べたように、das Manには「人間」を選ぶ方が相応しかった。ただし、「人間」という語の方には、他方、やがてhuman (beings)みたいな意味が展開し、それは普遍的人間とでもいった含みや重みも持ったようだ。それを思って、訳者たちは、人間はdas Manにはそぐわないと思ったのかもしれない。

「ひと」にも「人間」にもいわば世間化が起こった(詳しくいえば、「ひと」は世間化したが、「人間」はもと世間だったものが人にもなった)。ただし、和辻にとっては、その展開は、いずれにせよ否定的なことではなく、むしろ肯定的なことであった。つまり、das Man=世間的人間/世間的ひとは、実存の隠蔽ではなく、むしろその関係的在り方を示すものとして評価されるべきものであった。これに対して、ハイデガーのDaseinは、和辻にとっては、個人意識に傾き過ぎなのである。

で、ぼく自身の考えはといえば、確かにハイデガーのDaseinが「ひと」の様々なあり方を妙に個人意識に限り込んで狭く掘り固めているのは、納得できない。DaseinはDaseinであるにしても、そのDaはまた別のDaとやり取りする者である。生まれて「死に向かう」(Sein zum Tode)のだとしても、その死も別のDaに返され、それによって別のDaを生かしている。またそうしたものを介しての「ひとのいとなみの生成界」のようなものもある。そうした生成界がハイデガーでは「存在の家」といわれる「言語」なのかもしれないが、そこに様々な人々は息づいているのだろうか。そうとは思えない。(ついでながら、そもそも20世紀に起こったといわれる「言語」論的展開とやらは、私か公か、実存(個的主体)か世界かといった分裂反転構造を持っているようで、おかしい。ぼくは歪んだ枠組(選択)だと思われる)。しかし他方、和辻が、ひとの世間化をこれまた「人間存在の理法」などと妙に重視するのも納得できない。

よくハイデガーと和辻は、逆の立場みたいに言われる。だが、両者は、メダルの裏を描いたか表を描いたか──私を書いたか公を書いたかみたいなもので、意外にも背中合わせの似た構造の中にいるのではないだろうか。さらにいえば、ぼく自身は、ひと/人間をめぐって、じつは
          ひと─人間─ひと─人間─ひと
とでもいった生成の在り方の中にとらえた方がすっきりすると考えている。そこからいうと、ハイデガーは「ひと」に、和辻は「人間」に中心をおいて他項を外部化したような仕儀になっている。しかしどちらも「存在」といったハコか実体かに嵌っている。もっと動的なあり方のうちに見ることはできないのだろうか。

ところで、日本で「人」はなぜ「人間」になったのだろうか。このことはちゃんと調べる必要がある。しかも「ニンゲン」と呉音でいうのは、仏教とのつながりを思わせる。溯ると、江戸時代の一般名詞用法には「人間」という語はあまり見ないように思う。明治初期の福沢には「人間交際」などという語があるが、これは人と人との交わりという意味である。ジンカンコウサイなどと言ったらしい。それにしても、福沢にとって「人」=「人間(人間)」ではなかった。実際、「天は人の上に人をつくらず」であって、「天は人間の上に人間をつくらず」だと間抜けである。福沢はそんな言葉遣いはしていない。

ところが、どこかで、たぶん仏教的用法をも引きずりながら、あるいは近代の翻訳と関係してか、おそらくは明治も少し経ってから、「人間というものは……」「私は人間だ」といった用法が生まれた。ちなみに、たまたま見た明治16年の松田敏足「人間生存の組立」では、こうした言い方に近いものが散見する。そこでは「人間」は、「人間界」「人間社会」「人類」といった意味でだいたい使われている。二字熟語にして「重し」をつけたかった面もあるのかもしれないし、当時の一種の生物学や進化論や社会学の影響もあるかもしれない。いずれにしても、「人間」という言葉には、人一般、人類、さらには世間という意味とが、重なるようにして、いわばひとの空間的定義として行われることになった。

それだけではない。これはもっと新しい語用だと思うが、現在、「人間的」というときは、それを重んじ認められるべきものだという外的なニュアンスに加えて、内容的には──ここが特徴的だが──「弱みがある」「立派(な聖人君子)ではない」という意味が含まれているようだ。しかもそれがどちらかというと肯定的に主張されるようである。「そういうところは人間的ですね」などというときは、たいてい弱みやくずれがあって、それがむしろ共感・承認されるべきもの、とされていることが多い。もちろん、humanにも、I'm human.=「私も人間だ(から間違いもする)」というような用法はある。「GodでもSaintでもない」ということだろう。が、「だから、同じじゃない、いいじゃない」といったところまでそこに意が込められているだろうか。どうもそうではなさそうだ。

これに対して、「ひと」は、「人となり」という。そして古語で「人となる」とは、一人前になる、大人になる、という意味である。つまり「ひと」とは、何らかの承認や認知をふくむ、ある成就した存在者のことである。古い用法では、その重心は身近な他者に向けられ、たとえば恋人、相手、従者などを「人」という。15年ぐらい前だったか、「わたし作る人! ぼく食べるひと!」というCMがあった。いまでも、「わたしはこういうひとなの」「わたしはこれはできないひとなの」などという(どうも女性がいう場合が多いような気がする)。そうしたとき、この「ひと」には、そういう存在なのだ、それ以外ありえない、さらには承認せざるえない存在だ、という意味が含まれているようである。むろん、この承認の契機が横に広がっていけば、「一般的なひと」が出てくるのではあろう。ただそれにしても、「ひと」には存在の主張──いわば「da」があるわけだが、しかし、それはあまり弱さの主張ではない。つまり、「人間」には弱さの一般化がかなり含まれるが、「ひと」はそうではない。世に人気のある相田みつをは、「にんげんだもの」といったが、「ひとだもの」とはいわなかった。そこには理由がある。相田みつをは、「同じ弱い人間じゃないか」と言っているわけである。

「人間」は、認められるべきものという含意があるのだとしても、なぜそれがhumanityとかrightとかを越えて「にんげんだもの」になったのか。やはり、そこには、「人間」という語が「ひと」という語とは違って持つ空間性/一般性が関わっているのではないか。その点からして「人間」は「ひと」よりも共同性にまたパターナリズムに訴えやすい言葉なのだ。もちろんパターナリズムも共同性も、無くていいものではなく、あっていいものではある。しかし、あまり切り札的に訴えるなら、当然、陥穽にはまる。「人間一般」はひとをそこに入れたり・出したりする枠になる。そんなカテゴリーをわれわれは使い過ぎなのではないか。だから、これからは、あまり「人間」「人間」というよりは、「ひと」「ひと」といい、「ひと」であれといいたい。現在、ひとは「人間として認められる」よりもまず、「ひととして認められる」必要があるのではないか。


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