身辺のこと。自身も健康を一応保持していて家族や生きている限りの親きょうだいも元気でいる。また現在、(無茶な忙しさに苦しんでいるが)特別にどうしても困った難事にぶつかってはいない。そのことはとてもありがたいことだ。昔は、「無事是好日 実篤」などと書いた茄子の絵などが時々かかっているのを見ると、「何を馬鹿なことを」と思った。しかし、だんだん、そんな言葉があるのももっともだなと思うようになった。
最近は、実篤のそういう言葉をあまり見ない。その代わり、相田みつをの日めくりや色紙などがよく掛かっている。これは自己納得的というか人生論風ナルシシズムというべきものである。これについては「いいな」とはぼくはどうにも到底思えない。同様にして、相田みつをとは違うけれど、五木寛之が「生きるヒント」を書いたり、新聞に連載したりするエッセイも、本当のことを言って不愉快である。以前、五木のエッセイが「いい」というある先生とぼくは論争したことがあった。その先生は、五木のそれが「肩の力が抜けていていい」という。しかし、ぼくは、むきになってこんなことを言った──「こういうだらけた、しかし埒が明かないことを彼はしょっちゅう書いているが、本人は結局これで大儲けしているのじゃないか。現代のような時にそんなものを丸薬みたいにばらまいて人をだましている。それにあぐらを書いて平気なのはどういう気か知れない。退廃の極だ。若い五木を知る者からすると考えられない」と。すると、その先生は笑って「いや若いときから五木にはそんな受けねらいのとこはあったよ。それでもまた彼は彼のいいところがあるんだ」という。どうも、ぼくは怒りんぼうに過ぎるのかも知れない──。
日常に幸せを見いだすというのは、メーテルリンクの「青い鳥」のモチーフでもある。日本思想史にそれをさぐってみると、伊藤仁斎は、「米塩柴薪の細に至るまで、総て是れ道に非ずということなし」と言っている(童子問)。「俗の外に道無し。但し一点の俗気と雖も著け得ず」──これを読んだとき、ちょうどそのころ、観念の世界からたちもどると人間も鳥虫も生きている(という当たり前の)ことに驚くように気づかされていた。そこで仁斎にはいたく納得させられた。ただしかれは、ただhere and now にもどることを説いただけではなく、じつはあるラディカリズムを有している。しかし石門心学流の「知足安分」はどうだろうか。それはその頃のぼくにも、どうにもいやな思想の一つだった。けれど、いまはそういう生活というものがあるのだということは、少なくとも理解するようになった。
本居宣長は、さらに「ほどほどにあるべきかぎりのわざをして、穏しく楽く世をわたらふほかなかりしかば、今はたその道といひて、別に教へを受て、おこなふべきわざはありなむや」(直毘霊)と述べている。こちたく道・教えなどをいうことはない、あるべき限りのことをして楽しく穏しく世を生きるほかないではないか、というわけである。この言葉を読んだとき、「何かひどい、あんまりだな」とぼくは思った。が、しかし、年がたつほどに、惻々とおそろしいほどの言葉だな、と思うようになった。ぼくは今でもこの宣長の言葉もあまり認めたくない気持がどうしてもする。とはいえ、宣長の言葉は、いうまでもなく、メディアの上に寝そべっているような五木の言葉とは、掛けたもの・煮詰めたものが格段に違っている。
宣長はもちろん心学にもその他の過去の多くの考えにも、多くの人々が積み重ねてきた、普通に生きることの平淡にみえるが凝縮した意味が、大人しいがしかし動かし得ないように込められている。けれども、そのような思考があったことはもうあまり知られてない。そもそも、日常性というものに含まれた意味には、計り知れないものがある。中国古典の易や中庸はもちろん、デカルトやカントでさえ、常識や生の恒常性ということを生き方を考える出発点にしている。それは故ないことではない。そのことの意味はしかし、学問的にも忘却されている。学者はたいてい逆立ちしているから、忘却するのも当然かもしれない。しかし、一般人からそういう知恵のようなものが忘れられることこそ震撼すべきことだ。
日常性にはアルファ=オメガであるようなものがある。しかしたとえそうだとしても、それになおどんな態度をとるかという問題はやはり出てくる。宣長は、表立ってはもっぱら「回帰すること」を述べている。その考えは(その神学的枠組を取り払ってみると)「生活世界保守主義」とでもいうべきものである。それはそれであなどりがたい深みがあり、そのことはもっと考えていかねばならない。とはいえ、現在という時の問題は、そのような生活的保守主義が、どうもそのままでは成り立たなくなった、ということにある。それはやはり危機に違いない。たぶん、そのことともからんで、ぼくは、日常性を重んずるにもかかわらず、危機意識をどこかに孕んでないものを認めたくないらしい。アカデミズムであれ何であれ。。
ただ、何も危機が好きだとか、シュミット流の枠組に立ちたいというわけではない。その逆であり、まず生活世界を認めること・それを伸ばすこと。それが基礎であり目的なのではないか、とぼくは思う。だから、それ以外の権力もシステムも、本当なら全部いらないと言いたい。しかし今あるのは、その日常性の上にあるいは外部に人間が作り出したものが反転して日常性を掘り崩しているという「生活世界の危機」である。そして、その危機の意味を追っていくならば、「生活世界を守る、それを持続させる」ということを、たんに宣長風の随順主義とはちがった形での、知恵と人権をもち他者に開かれたものに転換していく可能性と課題とがあるのではないか、と思う。危機というのは、そのような思考・態度が要請されるという意味においてである。
