2004年06月13日

人生の時間による感覚の変化

10代終わり頃の若い人たちと話していると、つくづく「主体的な時の感覚」ともいうべきものが、50代もゆうに越えた自分とは違うな、と感じる。

そもそもそんなことを感得する・察知するということ自体が、(自分でも)若い時には無かったことだ。むろん若い時にも「年をくうとこうだよ」とか「こうなるとこうだよ」といった話を聞かされると、「そんなものかな」とは思う。しかし、それは言葉の上であって、実経験ではない。だが、加齢後には、それが実経験になっている。そして前の経験は、記憶の中にある。その二つの経験によって、なるほどこういうことかと考えさせられるわけだ。

もちろん、中老年であっても記憶が無い(意味づいていない)のであれば、その経験の二重性──もう一つの経験による照らし合わせ──がないのだから、考えさせられることもないことになる。それはボケなのか、意識がもっぱら先に向いてしまっているのか、それとも感傷その他の情念・感情のために物事が溶けてしまって認知が無くなっているのか、健忘症の理由はいろいろあるだろう。ともかく、ここでは、記憶というものが認知を生じているわけだ。

荻生徂徠は、人間がものを知ることは「巧者になる」(物事に習熟する)ことだが、「巧者とはだいたい老人である」と言っている。こうした場合、記憶はむろん一つならずたくさん蓄えられている。そうした綜合という意味でも、知が成立してくることになる。

瞬間瞬間の刹那系人間や、ただ前へ前へ行動系人間が認知に乏しいのは、忘却の大きさによる。「ミネルヴァのふくろうは夕暮れとともに飛び立つ」とヘーゲルもたしか『精神現象学』に書いていた。けれども、現在の飛び立っているのは、何なのだろうか。


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