「一神教」「多神教」という言葉は、宗教を見るときの枠組としてよく使われる。それらは最近は時節柄、宗教学や神学の敷居を出て、文化論や政治絡みの議論にまで出て来る。ただ、この概念をめぐって世間でよく言われることが、ぼくとしては胸のうちであまりにすっきりしないことが多い。つまり「一神教」に批判されるべきものがあることには十分同意するにしても、「一神教は偏狭で、多神教は寛容だ」といった言説となると、簡単にそんなことが言えるのか、と思う。つまり、その論とは反対に「一神教から偏狭さを越えるような論理や実践が出てきたり、逆に多神教から偏狭と暴力が出てくる」といった可能性はないのだろうか。そうした可能性を全然検討しないで、「一神教は偏狭、多神教は寛容」といっていい気になるならば、そのような言説を述べる者(多神教論者)やその周囲が、却って偏狭になって排他性・暴力性を帯びることになってもそれに無自覚になり、少なくともナルシシズムに陥りかねないのではないだろうか。これはぼくの神経症か。そうかもしれない。が、そうだとしても、この言葉の周辺には、なかなか安閑とできない、哲学的・論理的な問題やその実践性といった問題が含まれているのではないか、とぼくには感じられる。
最近世間に流れて「一神教否定=多神教肯定」論で一番顕著なのは、たとえば岸田秀(『アメリカの正義病・イスラムの原理病−一神教の病理を読み解く』春秋社、2002年、『一神教vs多神教』新書館、2002年)だろう。けれど、養老猛司『バカの壁』もある意味では一神教否定論で出来ているといってもいい。(しかし、それに「皆がものすごく殺到する」ということはどういうことか。人々の良識を示すものか。それともそれ自身バカを示すものか)。あるいは、以前からある、「森の思想、砂漠の思想」というような文明論や、梅原猛、河合隼雄といった人の議論も、言い方はいろいろだけれど、同じ趣向だといえる。このモチーフは、歴史的に振り返ると、和辻哲郎以来の、あるいはそれ以前の本居宣長の「漢意(からごころ)批判」以来の、日本人の言説の続いて来たパターンのひとつだという面もあると思う。先にも少し示唆したように、ぼくは、その「一神教否定=多神教肯定」論が、半分は──つまり一神の専横に対する批判としては──当たっているだろうと意義を認めるが、しかしもう半分はピント外れで飛躍を含む「いい気な論」ではないかと思っている。「往相はいいとしても還相はよくない」ように思う。少なくとも、この概念とくにそれの実践的な適用について、粗雑な単純さをもう少し整理しなければいけないのではないだろうか。
少し、しち面倒くさくなるが、まず意味・定義について考えてみる。一神教と多神教は、辞書等では、それぞれ「唯一神への信仰」「多数の神々への信仰」などと定義されていることが多い。これは、一神教と多神教の原語、monotheismとpolytheismがふくむものを、mono=only one、 poly=many, multipleと敷衍したもので、文字通りはどうということはない。ただ、とくに一神教の場合、唯一(only one)が何を意味するかが問題である。というのは、現実には周囲にそのonly oneではない神威(たち)があるわけで、それをどう見るか・どんな態度を取るかによって、バリエーションが出てくる。つまり事は自己・他者・世界といった問題になりそれは当然実践的な問題に関わってくる。そのあたりさらに定義ができる。一神教には、
(a)「この一神しかどこだって絶対あり得ない」
というのももちろんある。この場合、monotheismは、the belief in a single, universal, all-encompassing deityなど畳み掛けて定義される。いちばん勝義の一神教はこれだろう。しかし、もっと緩い態度のものもある。
(b)「この一神を自分は信仰するが他の神々がいるかどうか関知しない(いても関わらない)」
としたり、
(c)「他にもいるだろうが、この神こそが一番だ。他のものはランクが低い」
などとすることもある。それらは拝一神教(monolatry,monolatrism)、単一神教(henotheism)などというらしい。
すなわち、only oneというだけでは此処其処にわたる基準がまだ(十分には、とくに実践性を帯びた面では)定義されてないところがある。その点をめぐって、自己の神=絶対基準として、それを他にも無理やり押し及ぼすとき(a)になる。その基準の(適用の)絶対性は、実践的な無理矢理さ、肯定と否定のつよさになるわけである。他方、自己の神=基準とするが他をも低めながら秩序づけ・位置づけするのが(c)だといえる。これはonly oneよりnumber one という感じになってくる。これに対して、(b)は、いわば此処其処・自他にわたる基準をあまり立てないわけで、「無視」「我関せず」「それぞれ」「いろいろ」「自分はとにかくこうする」「立てこもり」「引きこもり」いろいろニュアンスが考えられる。日本人の用法でのonly one はだいたいこれである(──小泉流のいい加減と一徹を裏腹にするのもその間を適当に動かしているわけだ)。
ともあれ、一神教、多神教の論には、何らかそこで重視されるものの他への適用をめぐっての、同一性や複数性をめぐる論理がある。それが宗教的な人格やら世界をあらわす表象・制度・物語等に形づくられるときに、一神教・多神教といった諸形態になるといえる。もちろん後者の形に前者の論理が含まれているといっても同じことだ。そして、心理学や神話学の類型論を援用すると、(これは論理的に証明できるようなことではないし、具体例を挙げればきりがないが)一神教は男性性を優位にし、多神教は女性性を優位にするようだ。男性性は理・義・自由を原理として立つ・分ける・裁くなどの機能を重んじ、女性性は愛を原理として包む・結ぶ・育むなどの機能を優位とするという(これはユング派の説)。
一神教と多神教という分類論は、先にも述べたように、一定の宗教や文化に帰着してそれぞれ排他的に論じられることが多い。しかし、ぼく自身は、その教説の主観性の内部にとってはともかく、思想・宗教の現象として見るときには、「どちらかだけ」ということは実際あり得ないのではないか、と思っている。一神教の起源・典型とされている、モーセ五書にしてからが、紀元前数世紀頃のバビロン捕囚後にまとめられたようだし、むろんその前に伝承をつくったとして想定されるヤハウィストも紀元前900〜1000頃のことらしい。そして、その周辺世界は、文字通り多神教的な空間だったのだ。ユダヤのラビの息子であるE.フロムが指摘しているように、その一神教は、周囲の女神たちの世界を想定しそれとの戦いとその圧伏の中に、自らの宗教を形作ってきたのだった(『愛と性と母権制』ほか)。つまり、一神教とは、独立して存在し単独に定義できるものではなく、多神教を想定して立ち上がる宗教現象なのだ。
この点は、多神教の典型だとされるインド宗教においても、翻って見ることができる。
(続く)
