Blogのことを一番最初に知ったのは、伊藤穣一氏の「創発民主制」の話を伴ってだった。それが「民主制」にどう関わるのか関わらないのか、その議論からはいわば「個人の発信性を高めそれに他者が対話的に連関しうる」ことが読みとれ、なるほどdemocraticな方向性があるなとは思った。しかし、それが倫理的・政治的決定に本当にどう絡んでいくかはまだ空白部分が多いと思った。というのは、そうした方向づけについて、伊藤氏は、blogのネットワーク性が「創発的emergent」な動きを押し出して民主的たりうるという議論をしていたが、しかし事はそう簡単ではなさそうに思えたからだ。たしかにネットワークは、「分断されたり権威化されたりして固形化した知」の枠組をゆるがし、それを別のものに編成する可能性は与える。だからblogも民主化に結びつくかもしれない。けれども、それは予期されるものとは別の可能性をも与えうるかもしれない。よく指摘されているが、たとえば、ネットワークが市民的な自立や連帯に結びつくか、それとも究極の管理社会をもたらすか、それは両刃のつるぎのようなところがある。
かりにその可能性が「民主制」的方向に行き、破綻やおかしなループに入らないよう問題がネットワーク上で解決したとしても、それが現実の時空にどう媒介されるかという点はなおかつすぐに問題となる。ネットワークでよい議論や合意が醸成されても、実際の社会生活の方でそれを遮断するような体制がしっかり出来ていれば、事柄はそう簡単には動かないだろう。いやそもそも、ネット上の動きも安定も葛藤も、現実の時空の問題が、ネットに投影されて起こる面が少なくないかもしれない。とすれば、現実社会の側での権力や金力が、ネットワークをも支配しそのヘゲモニーを得る可能性だって(上にふれたように)十分にある。するとネットワーク空間は、民主制を可能にするどころか、たとえば《軍・産・情=複合体》に化する可能性すらあるだろう。
つい話がひろがってしまった。今回はそういうことがいいたかったわけではないので、blogに話を戻す。その後、blogを自分でもぼちぼちやりだして感じたことをいうと、いままさにわかったように、上にぼくがblogをめぐって最初に考えたことは、ネットワークをめぐる一般論ではあっても、blogがどうかという問題への解にはあまりなっていなかった。もとよりそういう問題系とつながってはいるが──。そして、blogはというと、対話的な部分はあるものの、様々なネット上の装置の中では「個人性」「自己性」が案外高いものだな、という印象がしている。なぜといって、一人が(共同でというやり方もあるが、とりあえずは一主体が)そのサイトを担いそれを書き続けるものであるから。その個人性=「自分がする」という点がやはりブログがもつ特徴といえるようだ。そしてもう一点、blogは時系列性をもつ。blogはlogであり「日誌」である。現にブログのサイトは、日記サイトを称している場合も少なくない。「時間の流れに従っている」という点も当然ながらブログの中心的な属性というべきである。
そしてこの二つは結びついている──後者が前者を強化している。いわば継起が自己を作っているわけだ。ソフトウェアとしては「更新」を容易にすることで、blogを書く者を存在させ表現させやすくしている。従来の「ホームページ」は、がんばって作っても、意味の体系性みたいなものに依存しており、そう「次々に繰り出していく」ことが出来ない。つい更新が途絶える。すると「お蔵」になり、だんだん廃墟と化す。すると人の出入りもだんだん無くなる──といったアイロニーに陥るところがあった。blogはそれをうまく乗り越えて、活を与え動かしている。
個人性・自己性が高いといったが、じつはその反対の側面もある。面白いのは、普通の日記は、(永井荷風みたいにあとのことをヒシヒシと考えて書いている場合もあるが)たいていはprivateなものである。他者を考えるにしても「いずれ」「いつか」これを見る他者である。ところが、blogの場合は、自己が書くにもかかわらず、「だれかがすぐ見ている(かも)」という感覚をだいぶ帯びている。実際に見ている人がいなくても(このblog自体そうかもしれないが)、この違いは案外大きい。
いうなればblogにはその「自己性」に対して、鏡のように「他者性・公共性」がむすびついている。その後者の大きさは──あるいは後者に反照された前者の大きさは──翻って生産の問題にも関わってくる。たとえば、ぼくの場合、このblogの内容の切れ端みたいなのは、長く自分のノートに書いていたけれども、しかし、まさに断片にとどまり、あまりしっかり書こうとしなかった。よほどでないと後からも見ない(著作のプロはそうではないだろう)。しかし、blogという形式になってから、以前よりは書き込むようになった。それは、パソコン奥にそれがあるから、というだけでなく、何かそれを掲示しているような感覚があるからである。少しは筋をもつように(あるいは人によっては美し画面にして)書こう・載せようというような気が、どこに向いているのか知らないが一種の向上心?が起こるようだ。あるいは作品化というほどでなくても何かの形・結果を見ようというような衝動が喚起されるようだ。早い話、自分自身ということから出発しながらも、それをただ自分しか読まないノートに書いているより、見えるところに書いた方がちょっとした「緊張感」を生じる。まして、その表わした場が、先に書いたような出入りが多く見る人が多いといったことになれば、たぶん「励み」にもなるだろう。(そうしたことがどれほど「励み」になるかならないかは、場合や人によるだろうが。)
他方、そのように「自分のものでありながら開かれている」というにもかかわらず、アクセスやプレゼン自体は容易なので、たとえば論文やエッセイをパブリッシュするよりは、よほど気が重くない。そこには日録であるという点も結び付いている。それほど仰々しく構え・構成しなくてもいい。だから、そうした従来のパブリッシュ形態よりは、よほどすんなり書くことができる。こういう自己ひとりであるのに意外にも対話性が貼り付いているというのは、PCというもの自体にあるものだが、それがstand aloneではなくnetwork上にあることによって、その側面がきわめて顕著に広がった。そうした地平に、blogもまた置かれている、あるいは成り立ったわけである。つまり、blogは、個々人のノートがネットワークにつながったもの、というべきか。
ただ、自己表現の形というか表現された物として見ると、現在のblogはまだまだ発展形態の一コマに過ぎないという感じがする。というのは、blogは述べてきたように、日誌であって、時間系列で物事を書き付けていく形が基本である。それが書きやすくなるゆえんでもある。例の野口悠紀雄氏の「超整理法」がこれが一番簡単と標榜するのと似たようなものである。ただ、野口の整理法も、少ししてみるとすぐ判るが、時系列やその系列上での並べ換えだけで、どこまでも物事が処理しやすくなったり生産性が高まるかというと、そんな単純な話にはならない。それ(時系列上)だけで処理できるのは、それ相応の「そんな単純な物事」に対してだけである。ある意味をもつ物事Aと(時間的には離れているが意味的には必然的なつながりのある)物事B、物事Cとをつなげ、時系列から切り離してグルーピングしてしまう必要は当然出てくるし、それをしないでどこまでも時系列の中にそれらを埋め込もうとするなら、そこから出てくる「あたらしい意味の立ち上がりや構築」には十分立ち向かえないことになってしまう。
blogの場合も、時系列での参照の仕方がソフトウェアとしてある程度展開したら(それも現時点ではまだそれほど立派なものとも思えないが)、次に出てくるのは、意味による編集に対する要求だろう。これに対しては、現在のblogでは「カテゴリー」などが少し導入されたり、「索引」があったりするが、まだそれをいろいろ編集加工に持っていくには、とうてい十分便利だとまでは言えない。いずれ、自分自身の文章をも含めて「リンク」やら「網状化」やら、「目次」やら「樹状化」やら、いろんな要求が生まれるはずだから、そういう部分にどう展開して「形」をもたらすかという問題が起こるだろう。ただ、それはもうblogではなく、blogのデータにもとづいて変換する別箇のソフトウェア的作業かもしれないが。。そして、この《編集》問題は、自分のものについてだけではない。他とのやりとりについても、さらに言える。現状でのコメントやトラックバックは、面白いものの、まだまだそれほど見やすいものではない。それは「議論を発展させる」には物足りない感じがする。何かもっと出来そうであるのに。blogをプログラミング〔ソフトウェア作り〕に生かしているということもあるらしいが、そうしたオープンな地平のもとでの知的生産を目指すのだったら、現在のblogの形態はあまり充実したものではない。もしもblogがネットワークにつながったデジタルなノートであるのなら、もっと自由自在で生産的なノートであってほしい。
意味による編集の要求ということを追いかけたら、結局、(ソフト的にいうと)昔ながらのホームページビルディングに戻ってしまうかもしれない。つまり、そのような要求は、従来型の文章やらエッセイやらに、あるいはもっとimaginativeなものを扱ったとしても、やはり従来型の記述の体系に回収されてしまうかもしれない。むろん、そういうことはあるだろうし、それはあってもいいと思う。それならそれで立派なものもみたい。ただ、ここで考えたいのは、「ただ、そうした体系に収束してしまう」のではないあり方もあるはずだ、ということである。つまり、時系列性と意味性とを自由に行き来し、自己性と他者性を往復共働化するようなあり方がどこかに可能なのではないだろうか。その可能性を形として見てみたい。面白いことに、その可能性とは、人間的にいうと、「夢」のなかに近いものである。その連想的なものをコントロールできるような形での文字や画像としてまた論理的な命題としても扱うこと、それはできないのだろうか。
(こういうことを言っているのは、ぼくがMovable Typeなどを直接使っていない初心者だからで、それを直接使ってサーバーにアップしたなら、もっと目眩くような世界がもう現に展開しているのかも知れない。それならそれが楽しみだ。)
可能性だから話が少し飛躍してきた。ともあれ、blogやその他の形態が今後さらにどうなるかまだまだ判らない。もっと発展するだろう。そしてその可能性の基礎はというと、もう一度もどって上の《編集》ということでいえば、現にblogでも行われているように、電子データの場合は、編集したからといってその(物理的な)物自体の配置を変えなくてもよく、それを違う形に写し出せばいいということにある。実体的な言い方をするならば、現物はそのままにして、コピーを取ってそれを別の形にすればいいわけである。またネットワークとは、今・此処(here and now)が其時・其処(there and then)に、自が他に媒介されうる、ということである。そんなことは当然といえば当然だが、しかし現実の硬い構造は到底そうはなっていない。にもかかわらず、そうした媒介的なものが日常的な人間の事わざに繋がってくるということに大きな意味がある。そうした可能性はもっと展開できるし、するはずである。そして、その展開した姿が跳ね返って、従来の知的生産や書き物といったものの概念が変わってくる可能性もやはり大いにある。
