2004年05月23日

性と文化の関係2

先に《性を抑圧ないし転化することで日常性を離脱したヨリ精神的/普遍的世界をつくるという力学》のことを述べた。しかし、それはまた子を有する育てるといった、種々の生産をさらに持続したり促進したりする要因にもなりうる。あるいは、それを停滞したり阻害したりする要因にもなりうる。

事柄は心的なエネルギー論として、それだけではおさまらない。社会的空間に関ってもいる。また、そこにはエゴイズムの温床もある。

子育てとは何か。自分にも子供がないと、いわゆる人の子のことを考えようとする。あるいはそもそもそうでない場合もある。しかしともかく必ず何かの方向づけがある程度生じる。

むかしからフロイトにしても、性とその抑圧・離脱が主題化されおり、当然のようにその方向付けが描かれていた。しかし、その分析が当たっているのか。それが問題である。

そもそも性はどのような意味をもつのか。文学の場合、性はマイナスというよりプラスになるのではないか。物語の結婚もある。「徳のなかで子どもを創るものが哲学」ともいわれる。

「自分自身のもの」として子どもがいることは、私有財産、エゴイズムにもなる。しかし、何かを育てることは、さらに広がり、種になることもあり得、それが精神性にも公共性にもなりうる。

プラトン「死を習う」といっている。論語でも「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」という。直接的な性と生を乗り越えることを彼らは知っている。


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