古来の宗教や哲学では、禁欲(ascesis)や独身制が強調されていた。おそらくそこには《性を抑圧ないし転化することで(日常性を離脱した)ヨリ精神的/普遍的世界をつくる》という力学があったのだろう。が、蕩尽さんが「ユーミン夫妻には子どもがいない。あきらかにそのぶんのエネルギーが仕事に注がれている」と述べている(昨22日のコメント参照)ことを追って考えてみると、そのような「離脱の力学」は、宗教や哲学だけでなく、音楽を始めとする芸術にも、また現代にも妥当する面があるのだなと思わされる。考えてみれば、古くは、芸術の生産と享受とは(現在のように個人的な趣味の領域に分類されるよりは)、もとより個人の私的内部への深い嵌入はあるにしても同時になおシャーマン的な営みに関わるものであり、それはガイストというか精神的普遍的な次元への参入・その勧請でもあった。その意味で、宗教も芸術も地続きであった。
古代・中世においては、哲学や宗教だけでなく芸術においても、「性エネルギーの個人的で通常の快楽・生理・生殖に向けた過程への使用」を「さらに別の次元への使用」に転化することは、当然あることだった。そこからいうと、ユーミンなどは、まさに現代の芸術・芸能をシーンとするシャーマンというべきで、古代・中世以来の芸術のそうした回路を現代に働かせているとも言えるのかもしれない。
これに対して、いまよく聞くワカモノのはやり歌では、一見新しそうでいて実はまるで昔の水前寺清子の人生歌と毛一筋も違わないような狭義の倫理道徳に収斂する芸能の類が意外に多い。そこにあるのは「シャーマン」的なものではなく、もっぱら既成性の中への(いじましい)回収と安心の動きのように感じられ、それにあまり多くのひとが喜んでいるようなのは却って悲しい。いかにも現代風なタレントの歌が、じつは武者小路実篤どころか相田みつをと親戚だったりする。しかもそれが大変な文化的な力をもつのだとしたら、それはなぜ・どこから生まれるのだろうか。がしかし、ユーミンの場合などは、そうしたものをはるかに凌駕したイメージや力を持っているようだ。それは、たぶん彼女のシャーマン性から来ているのであり、それと彼女の生活形態とも対応しているのだろう。
ともあれ「通常の(性的)生産」と「文化的生産」との間には次元の差異がある。文化の生産者は、言葉を上から下すのか下からこみ上げさせるのか、表出するのか孵卵させるのか知らないが、通常の生のプロセスとは差異をもつ次元をその身に媒介してもたらし、現実のうえに重ね合わせる。が、通常の性−生的生産と高次の文化的生産との関連あるいは差異のあり方になお踏み込んでみると、「芸術」的な文化生産においては、その両者の間に連続面も大いに見られる。これに対して、「宗教」や「哲学」では、少なくとも従来のものは、かなり非連続であったようだ。具体的には、禁欲や独身制は、芸術生産では必ずしも必然的ではなかったが、哲学や宗教では長い間必然的なものとされた。これはどうしてだろうか。
この問題は、おそらく従来の主流となった哲学や宗教が、logocentricだったせいなのだろう。「次元上昇」がただロゴス的なものなのであれば、性や生に対しては抑圧的になり──少なくともそれを直接的な自己からは完全に排除し、自身はもっぱら(インド哲学的にいうならば)サトヴァ(純質)的になるほかはない。が、それは、性や生を、他者に投影するか、自己の深層に投影物をつくるか、いずれにせよ、それらと奇妙な鏡像的な共軛関係に陥った生の形成をもたらすことになると思われる。そのような思想史の実践は、しかし、じつは自己言及どころか自己破壊また他者破壊にも至る。しかし、芸術においては、必ずしもそのような袋小路はなかった。というのも、芸術の生産はつねにエロスと東洋風にいえば「気」と共にあったから。それはいうなれば、世界を変えるにしても、エロスと一緒に動いていく。「つくられる」新しい世界は「うまれる」ものでもある。
ただ「ロゴス」といっても、(ぼくは正確なところは全然知らないが)、紀元後少したったころまでのロゴスは、現在みたいに痩せこけていたのだろうか。たぶんそうではないだろう。それはソフィアの女神と関係が果たして無かっただろうか──あったのではないか。プラトンのイデアにしても、美や愛の蔵のようで、だからこそ、それを認識することが想起することが憧れや愛にもつながっていたのだろう。蕩尽さんがさらっとだが次のようにぼくにはまさに「真実だ」としか思えないことを書いている(参照)。「私たちは近代哲学にだまされてプラトンの「想起」をもっぱら知的・思弁的なメカニズムだと思っている。しかし想起されるものとは知的な意味での真理であると同時に、性的かつ生命的な対象でもある。そこには濃厚なエロティシズムがある」と。つまり、想起は深々とした呼吸とともに訪れ、胸いっぱいになり、そのことによって自分の現在の「殻」が溶け出していくようなものであるにちがいない。まこと、そのような「愛」さえ充実してあればひとはこの肉体を失ってそこに行ってもいいのだ。そして翻っていえば、哲学のもつ憧れはもちろん、プラトンが「死に習う」ことも、浄土教が「往生」するのも、もとはそういうことだったのだろう。──ぼく(たち)はそこから遠く離れて来てしまったが。
しかしそうした究極の飛翔はできないとしても、人にはその生命体のなかにおいて「夢」のような形でそれがいつもあり、無いわけではない。そこからいうとやはり蕩尽氏がいうように「想起とはたんなるメカニズムではなく、人生を賭けた探究であり、くりかえされる悟達の体験でもある」(前同)。そうした心的な実質としてのピークあるいは深みを手がかりにしてこそ、じつはぼくらは生きようとしている。そして、それ以外の社会的構築物こそがむしろ「影」ではないだろうか。だとすると、もしも生や倫理にふれようというならば、それは社会秩序からではなく、そのような無意識に根差すような物語的流れからこそ導出されねばならず、社会秩序の方が「そのための方便」である。このような考えは転倒というべきか。いやむしろ現代的に形作られた「現実」の方が転倒しているのではないのか。
