小学校の何時頃だったか、年嵩の人が漱石の小説をめぐって話していて、ひとりが「漱石の作品は読む年齢によって変わるんだよね」といい、他の人が「そうそう」と言っているのを聞いた。「そんなものか、そういうことがあるのかな」と思った。
で、あとから思えば、年を重ねるとともに、やはり「そんなこと」はあった。漱石がそうだというだけではない。何につけ、「世界の変化」はあるものだ。その「世界の変化」は、客体的に変わっているというより、同じ物事であっても、主体の側にある時ある時なりのモノの相貌があり、それが人生の過程に応じて変わりながらつむぎ出されているということだ。世界は人生上の時間性・空間性に応じて現れている。
そのような相貌の変化を、しかし、「人の生」という物事の側はそれ自身一手に引き受けているのであり、それはバラバラであることもあろうが、たぶんある一貫した変容でもあろうから、そのような様相を紡ぎ出すという意味で、「人生」というのは大した物語だということになる。が、同様に、創造された作品・作者についても、そのものひとつでそうした相貌変化に堪えるというのは大したことである。だから漱石はやはりコイ・ユタカナものであって、一過性のドギツクてもウスイものあるいは一時の「流行」とは違うものがあるということだろう。(私自身はこのところ漱石自体については実験していないが。)
ある作品が、ある受け手の人生での相貌の変化に堪えられるのだとする。だとしたら、その作品は、たぶん、その一世代に享受されるのみならず、別の世代(時代)にもやはり享受されるだろう──世の中がすっかり入れ替わってしまわず、人生というものが依然としてある限り──。するとそれは要するに(ちょっと硬い言い方をすれば)古典とか名作ということになるし、まあ別にそんな権威を帯びないとしても、スルメのような味のある作品・言葉ということになるだろう。芭蕉の「不易」というのもそういう種類のことだろう。
蕩尽さんが、ユーミンについて「その歌はいつまでも愛され、新しい世代のもとでも歌われつづけるだろう。それはいわば彼女の子どもたちとして私たちに愛され、きっと不滅の生を生きることになるだろう」と書いている(参照)。ぼくはじつはユーミンそのものについてはふれる資格がない。けれどここで言われている問題は考えてみると、面白い。つまり、そういう名作かスルメかは、その作品の側にたってみると、個々の人間より「長生き」なのだ。これが、古来、"Art is long"と言われていたことなのだな。
換言すれば、そのように人々に宿るものとして作品化されたものは、いわば「個」ではなく「種」になり「類」になるのだということになる。これはまたむろん物語論にもつながるし、そこにある「生」ということを考えていくと、西欧哲学流には「目的」という問題にもつながってくる。このあたり、どうも思想的にも面白い問題がありそうな気がする。
