菅直人が民主党の代表を辞任した。一言、問題の頭出しをしておく(政治家敬称略)。
蕩尽さんが菅について「公人としての倫理にかかわる問題である。国民はまさにそこを見ている。公人としての政治家の倫理的・象徴的役割・・・・・・政治家というものがどんな仕事なのか、政治的ふるまいとは何を意味するのか、まるで考えたことがない。・・・・・・しょせん市民運動あがりと言わざるを得ない」と書いている。菅の政策的なところは問題にしてないし、かなり手厳しいが、菅の人間を問題にした点はかなり鋭く当たっている。詳しくは、http://www.mypress.jp/v2_writers/devenir/story/?story_id=399037
この「菅の勘違い」逆にいうと、菅がわかってない「倫理的・象徴的役割」とは何かを、ぼくなりにもう少し続けて考えてみたい。
ぼくは菅の政策的スタンス自体は、まったくすっきりしないとはいえ、小泉よりは判るところもあると思っていた。ただ、彼の「政治家としての人柄」については(個人としてはよく知らないが)、どうも釈然としなかった。鳩山の茫洋とした無責任さは、結果としてひどいことになりそうで、それよりはいいようにも少しは思った。しかし菅には何か足らない・違うなと思い、それが何かよく判らなかった。
去年の選挙に、妙に目を剥いた人相の悪いポスターを作ったので、何だろこりゃ、と思った(考えてみればこのあたりから問題があったのだ)。そのあと、党首対決で舌鋒に力みを入れているので、なるほど、(鳩山とちがって)「対決姿勢が必要」と思っているのだなと推測した。ただ、その後の、年金問題以後の菅の墓穴は、その「対決姿勢」のせいである。何か、辻本清美が、鈴木宗男を攻めているときはいいが、そのあとそれが墓穴になったのと似たようなものを、この人も持っている。というのは、政策では対決をしても、それは個人的な問題ではない、そして人間的なところでは信頼感が必要というようなところが、彼にはよく判らなかったのではないか。その攻めとは違うひろい公的な部分のような徳性については彼は自慢の?「笑顔」を引きつって作ってみせる以上には思い至らなかったのではないか。
「攻めの姿勢」というのは、党として・政策としてはあってもいい。しかし、政治家自身のあり方としては、通常、個々の攻めというのは、船でいうと駆逐艦か将棋でいうと香車みたいなもので、大艦というか「将」がすることではない。江角マキ子を呼べといって息巻いていたが、こういうのは手下にさせて、自分はうんまあそうかな、みたいな状態であってもいいはずだ。だのに、自分でやっているのは変である。これは、言い換えれば、彼には人が居ないということなのかもしれないが、さらに、古来政治家には「仁」が必要だといわれていたのだが、それが菅には無いということなのではないだろうか。政策的には仁があるのか無いのか知らないが、人柄的にはあきらかに仁が無い。たしかに市民運動的に「追求」をし、あとは体制と妥協をする、というスタンスでやってきたそのハビトゥスが抜けない感じだ。
対照的なのは小泉である。この人は政策的には不仁というべきだし、だいたい頓珍漢この上ない。外交政策なども詳しく書かないが、いい加減この上ないと思う。しかし、政策的・政治的レベルのイメージでは、ともかく「対決姿勢」「決断」を演出しおおせている。ところが注目すべきことに、彼は人柄的には、ぼくがテレビに映ったのを見たところでは、まったく空虚に威勢がいいにもかかわらず、個人攻撃の類や個人批判的な言を弄しているのを一度も見たことがない。誰のことも悪くいわず、まあ八方の幸せが大事でしょう、というような言い方をする。つまり、何か威勢はいいが、人にやさしいというか、少なくとも噛みつき犬ではなくて鷹揚みたいに感じさせる。無理にそう演じているとも思えず妙に板についている(たぶん政治家の子供だからだろう)。おそらくは結果倫理的には不仁な小泉が、国民的には支持される所以のひとつは、ここにもあるような気がする。
もし政権を与えて「結果的に」どちらがいいとは簡単にいえないようだ。また、こうした「菅の勘違い」と「小泉の勘所」が、墓穴になったり浮き輪になったりすること自体が政治的動きとしてはちょっと変な感じがする。しかしともかく、菅と小泉の人間的「徳性」のアイロニカルな対照性には興味ぶかい問題が含まれている。両方合わせて、日本の不幸というべきなのかもしれない。
(議論が未整理で途中だけれどひとまずここでストップ)
#ちなみに、トラックバックの表題が相手先で文字化けするのは迷惑かけてわるいが、どうしたら直るのだろう。
