「トラックバックとは?」(2004年5月07日)にコメントが続くうち、「中間的な主体」(5月9日)で考えていることとじつは合流するような筋になっていることに気づいた。
詳しくはそこ(5月7日コメント)を参照してほしいが、蕩尽さんは、「安楽共同体」(藤田省三)がじつは他者恐怖や猜疑心にさいなまれている、つまり「安楽共同体と他者恐怖」がセットだと指摘している。ここから出てくるひとつの顕著な態度が、(「中間的な主体」の項で書いた)「傷つきやすさが反転、強面に」という在り方なのかもしれない。
で、「妙に傷つきやすい」「妙に強面」というそのどちらでもないものは何か、というわけだが、蕩尽さんは、
>笑いのなかで自他を肯定する哲学というものを(ベルクソンとバタイユの驥尾にならい)私は模索している
>ようするにユーモアという態度を倫理の根拠に据えてみようというわけです。
という。ふーん、なるほど。笑いにも哄笑とか、引きつった笑い、高笑いとかもあるけれど、そもそも笑いには、寛容ということや、自己対象化といったことともつながるものが含まれているようだ。面白い。
学生時代、ぼくは、哲学者の笑い論を2,3読んだけれど、何かよくわからず、忘れてしまった。しかし年を食ったから、ニュアンスが判るようになっているかもしれない。そういえば、ぼく自身、どういう笑いか知らないが、日常的にしょっちゅう笑っているし、会合などが硬直すると冗談をつい飛ばしてしまう。それは何なんだろう。
最近は少なくなったけれど、和顔愛語などと言われて、ニコニコ笑っているのがいいのだよ、という教えが昔からあった。またそういう人がよくいた。武士的エートスではそれはないが、庶民にはよくあった。外国と付き合うようになると、日本人の薄笑いというのが、気持ち悪いものということになった。
むかし新渡戸稲造を読んでいたら、「夫が死んだ妻がアメリカ人の前で、骨壺を抱いてはかなそうに笑ったら、アメリカ人が、夫が死んだのに笑うとはなんと残虐なという反応をした。笑いの意味がちがって解釈されたので、おどろいた」という主旨の話が出てきた。ここには一体、何があるのだろう。
他方、日本人のよくある習慣として、少し親しくなったら緊張をほぐす儀礼のように変な「じゃれ笑い」をすぐしたがるような気がする。TVのバラエティ番組など、ほとんどそれを増幅しているようなものである。これも妙な感じがする。少なくとも欧米のトーク番組などで笑わせているのとずいぶん質がちがう。ただ、その「じゃれている」のは、イエスをいたぶるローマ兵士の笑い──いまでいうと、イラク人を虐待するアメリカ兵士の笑い──と、どこかで繋がっているが、ちょっと違ってもいるようだ。
何かすっきりしない笑いばかり思い出してしまったけれど、ともかく、自他の関係において笑いの働きが面白い意味をもつのだということが何か判ってきた。笑いは構造が固定せず、ゆれるときの生命の振動みたいなもので、とにかくもとの安定性にしがみつくことから外に出ている。その意味で、「中間的な主体」?を生むのだろう。
ただし、いろんなハレーションやジャンプもあるので、だから超越的主体を生んだら、高笑いになったり、従属する主体になったら、卑屈な笑いになり、しかしそれでも何とかしてやるぞと奴が主たろうとするときは、イヒヒ笑いになるのだろうか。いろいろ考えさせられる。
