2004年04月24日

パッション(受難)  〔一応完結〕

欧米で大変な話題になっている、メル・ギブソンが監督した「パッション」(The Passion of the Christ)を、5月の封切りに先立って試写会で見た。いろんな感想があって、じつはちょっと書き切れないが、簡単にだけ書いておく。

まずは誰もが印象づけられるのは、パッションという名に違わずというべきか、キリストに加えられた迫害・暴力をきわめて迫真的に描iいていることである。それは凄惨というか酸鼻極まりないといってよいほどにしつこい描き方である。笞打ちの場面がこれでもかこれでもかというほど延々と続くし、十字架を背負ったり、それに掛けられたりするイエスの肉体への迫害やダメッジの描写が念入りきわまりない。これはイエスの肉体・血がまさに現れ出る作品だといってよい。その書き方は、ヨーゼフ・ブリンツラーなどの研究を参照したのではないかと言われる(大貫隆他訳『イエスの裁判』)。アラム語を登場人物に使わせているところなどもあわせて、イエスの体験やその状況そのものに迫ろうとする一種のリアリズムがあるといえるだろう。

そうした点は、学問的ないし歴史的な視点からは、「よくやった」と言える面がある所・ある程度あるわけだろう。がしかし、そのような史的リアリズムが全編に貫かれているのか、というと、決してそうではない。つまり、たしかにあるところは聖書学や歴史学が明らかにしてきた事実への肉迫や脱神話化に少し棹差すかに見える。しかし、それを位置づけるプロットや全体のあり方は、「事実そのものへ」という態度とはまったく違う。というのは、映画の筋は、伝統的な「十字架の道行き」(14留あって、それが黙想の対象となる)や、「十字架上の7つの言葉」などいわば後代のキリスト教が構築した寓意的な枠組をそっくりそのままそこに被せているからである。

したがって、「史的リアリティ」は、もっぱら受難の迫真性をいやが上にも高めるためのものである。その受難の迫真性は、あまりにそこに重心がありすぎる気はするが、結局は、物語的ないし信仰的な効果──仮りに「物語的リアリティ」と言っておく──を浮き彫りにするために用いられているようだ。別の言い方をすると、映画の世界が、こちらの一般的通念から分離され、いかにも「それ」はそうありそうだというように設定されると、あとは歴史的にどうかということにはこだわらずもう関心は注がれてない。そして表現としての追求が行われる。受難の迫真的な描き方は、ときには史的事実よりはもっとオーバーかとさえ思われることがある。また、かなり多くの場面では、史的リアリティは、画面上での物語的リアリティを優先するために、ないがしろとまでは言わないにせよ、容易に動かされたりアレンジされたりしている。そのアレンジは多くはむしろ伝統的である。「十字架上の七つの言葉」をイエスが漏れなく述べたり、「遠巻き」にしているはずのマリアがイエスと身近に会話したりするのはその一例である。イエスの顔を拭うヴェロニカやピラトの妻クラウディアの書き込みも、(後代説話的であって)史的なあるいは聖書によるものではない。それ以外にもあるだろう。

(イエスの裁判は、映画では、ピラトがまず(死刑のためのではなく、死刑を避けるための)笞打ちに持っていき、ついでそれでもだめだいう祭司・民衆に押されて十字架刑にするという運びだが、すべての福音書がそうなっている訳ではない。このプロットはブリンツラーなどの史的探求に拠ったように思えるが、あるいは寓意的に定番化されていた面もあるのだろうか。いずれにせよ、その結果、イエスへの迫害がより最大限のプロセスとして念入りに描かれるようになったことはたしかである。)

キリストの受難は、たとえば、私の知る17世紀初頭頃のキリシタンでも、イグナチウス・ロヨラの霊操(心霊修行)の影響を受けたらしい、『スピリツアル修行』に「御パッションの観念」というのがあるように、そのあとを黙想し辿ることが特にカトリックではながく行われて来た。笞打なども、今はどうなのかよく知らないが、かつては、「行」としてよく行われていた。キリストのあとを追体験する人が、聖痕を見たりみずからに得ようとしたり/あるいは実際に身に得たりした。ギブソンも、十字架で釘を打つシーンを撮るのに自分の手を使ったという。受難は、教会的な黙想や祈りのテーマであるだけでなく、民衆的にも、十字架を負ったキリストのあとを辿って傷つきながら巡行する祭りなどがいまでも世界各地にある。

そうした受難の具体性は、いわばロジックとしての贖罪論になったり教会的な制度になっていくとき、たしかに空洞化されていく。実際、先進国におけるキリスト教の信仰的退潮は明らかである。とはいえ、それを身体的・具体的に確かめようとするというする動きも営々としてあった。そのキリストのあとを辿る黙想・殉教追体験の営みが、ここでは映画という形をとってギブソン流に行われたのだとも言える。だから、これは「受難物語(劇)」「受難の黙想」の現代映画化だともいえる。ギブソン自身にとってみれば、この映画完成への道程は、史的リアリズムをある程度援用しながらも結局は彼なりの「イメージと音」によって増幅した「受難への想像的遡及」であり、その表出であっただろう。もちろん、それは興行でもある。したがって、この映画は、彼自身もそうだろうが、他の人々にも、キリスト教の伝統的核心を再想起させ、信仰を新たにさせるような機能をもつところがあると思われる。キリスト教圏でヒットしているのもわかる。

そのような受難遡及のさいのカテゴリーについてだが、映画では先に述べた14留や7つの言葉だけでなく、その核心部分にはもちろんキリストの肉体と血がある。これが聖餐(聖体)と重ねられていることは明らかである。実際、その虐げられた肉体と血に、マリヤなどが近づきふれようとすることはもちろん、異常に嗜虐的に描かれているローマ兵などさえ、それにふれることで、わずかづつだが変容を起こして行くかに描かれている。とくに、最後の十字架上のイエスを刺した兵士はその血を浴びることで、一種呆然とした表情を見せたりする。これはまさにミステリウムとしての「聖なる血と肉」にふれた故なのだと暗示されているのだろう。

その反対に、ユダの死の場面には、ご丁寧にも蛆がたかる腐臭に充ちた動物の死体が置かれ、この死がやがて成就するイエス(キリスト)のそれとはまったく違うもので、再生(復活)につながらないものだと示唆しているかのようである。おそらくそのこととも関連するのだろうが、サタンが青ざめたいかにも陰険な死神風の女性のように描かれて、最初のゲッセマネの場面以来、最後まで何かというと同伴する。笞打ちの場面だったか、死産した子どものようなものを抱いて通り過ぎたりする。これも何か寓意的なものがかつてからあったのか、それともギブソンの置いたものかいま詳かでないが、いずれにせよ、復活につながらないような死の象徴なのだろう。(──あとで、ある方〔OY氏〕から、この死神は中世的なイメージとしてよくあるものだ、と教えられた。)

つまりもの凄い迫害を受ける肉体と血にこれでもかと直面する受難(的死)のプロセスがギリギリのところで反転、生を通し見ることになっており、これに対し、そうでないような汚辱のあるいは青ざめた死が対置されているかのようである。受難から反転して出てくる前者の生は、もちろん最後の「復活」の場面ではっきり示されるのだが、その途上においてはさまざまな回想場面においてイメージが重ねられる。それはイエス自身が弟子に向けて愛を説く言葉のシーンであり、あるいは特徴的なのは、マリアとの母子関係的な場面である。こういうときのイエスは、とてつもなく穏やかでうっすらとにこやかな表情で弟子たちに語る人だったり、母の幼子だったり、あるいはマリアとファミリー的に交流する青年だったりする。その端的に肯定的に描かれる柔らかかつ暖かな生の姿は、迫害の暴力シーンときわめて顕著に対比されている。こうした際のマリアの存在は大変に大きい。それはカトリック的といってよいのだろうが、ともかく、この端的な二人称共同体的な生と、まったく壊滅的な暴力とが、対比的に強調されていることは確かだ。そしてそのマリアおよび復活の意味が、女性のように描かれ生まれない子を抱いているかのようなサタンと明らかに対照されている。

したがって、この映画が何を説いたかというと、残酷きわまりない受難を描くことを通じて結局愛を説いたのだ、ということになるだろう。ただ、「残酷きわまりない受難」に重心が置かれ過ぎている感はする。それ以外は、キリスト教的教養を前提にして省略されたのだろうか。が、それにしても愛が、そして復活が、「取ってつけたよう」である。おそらく、見る者が何かを補わなければ、残虐シーンとわずかな甘いフラッシュバックばかりが残るだろう。

受難がなぜ愛になるのかという論理については、映画は、もちろん七つの言葉などを配しているが、その先は結局きわめてプリミティブで生理的・肉体的・神話的といえるようなものにつよく依拠している。つまり、生け贄をあまりに見れば、またその生け贄が無垢なよいものであればいっそう、それにいたたまれず、惻隠の情を喚起されざるを得ない──そのような論理に映画はもっぱら訴えている。そのため、イエスの受難がどういう文脈から生じたか、イエスがどんな多くの喩えを説いたか、どんな差別民の中に入っていき宣教したり飲食したりしたか、癒しのわざを行ったか、あるいはどんな魅力をもっていたか、といったことは、フラッシュバックの場面にすら、ほとんど語られていない。

つまり、それはまったく狭義での受難とその反対物としての愛・無垢しか描いていない。そのことは結局、復活の必然が(神秘としてすら)感じられないという、キリストを描いたものとしては致命的な問題を生じているようだ。古い保守的信仰への退行としてはそれでいいのかもしれないが、「受難がどうなるのか」すなわち「復活とは何なのか」という問いは、テーマが受難だというにしても、あまりにも不足で示唆さえあるとはいえない〔このあたりについては、OY氏の指摘により考えさせられた。私の議論はまだ不十分だが、感謝したい〕。

「受難がどうして起こるのか」もあまりよく判らない。だから映画では、受難が激しいのはローマ兵たちの個人的な嗜虐的性格、彼らのサディズムによるものであるかのようでさえある。聖書には、ローマ兵は、イエスを「いたぶった」とあるが、そのいたぶりは映画では言いようもなく嫌らしく、もう止めろと言いたくなるプロレスの悪役によるものかのようである。たしかに、史的にもそうだったかもしれないが、しかし映画のロジックがそこに止まり、このような悪・暴力像にきわめて依存的であることは、ギブソンの想像力と知性の狭さをやはり感じさせられざるを得ない。格闘技をみるような異様な感情といかにもイノセントな愛と、こういうカテゴリーしかこの人にはないのだろうか。むろんそれがいわば原初的・神話的な感情に根ざすだろうことはわかるし、それをよく描いたとも言える。が、しかしそれしか描かないというか、少なくともそれ以上の次元への視野が(受難の寓意的配置以外に)ほとんど無いようなのは、いったい何なのだろうか。

(その後、ギブソンは、ローマ兵の残虐さのみならず、キリストを殺せ、という「群衆の負のエネルギー」をこそ描こうとしたのだ、という映画評があった〔石飛徳樹、朝日新聞、2004.4.29〕。ただ、この点はイエスの処刑における常識でもあるから、それをギブソンが敢えて描きたかったとのかというと、どうだろうか。ともあれ、それが意図的にか結果的にか表現されていることは確かである。それにしても、その「負のエネルギー」をあるいは心理的な嗜虐や暴発に対して少なくともこれを「批評するような視線」は映画には見られないとぼくは感じた。暴力にはこの映画のような種類の「愛」だけしか対置できないということだろうか。)

受難のプロセスについては、聖書学やそれと関わる神学では、(1)イエスが、様々な言葉や態度を現しながらも、始めからある確信の上にあってそれを完遂するという筋、、(2)イエスが、最初は従来の当時流布した言説とも結び付いた確信をもちながらも、次第に絶望に至という筋、(3)イエスが同様にその確信していたイメージを次第に破砕され、いわば無限の問いに至るという筋、等の解釈があるらしい。が、多くの西欧の学者は(1)的な流れを見る者が多いという(大貫隆氏による)。それだと「イエスという経験」ではなく、もちろん「キリストの受難」である。この映画も、そのタイトルどおり、やはり(2)でも(3)でもなく、(1)である。ゲッセマネの苦悶以後は、イエス(キリスト)は確信の道を進んでおり、たしかに虐待は極に達するが、あくまでもその心に揺るぎはなく、結局愛が説かれ続ける形になっている。ギブソンは、西欧の多くの学者たち以上に、正統的な受難物語を踏襲している積りであろうから、それは彼にとっては当然で、他の選択はなかったのだろう。その意味では、この映画は、パゾリーニの「奇跡の丘」や、「ジーザス・クライスト・スーパースター」のもつものに較べると、「保守的」といえるかもしれない。

以上のことは結局、この映画がどのように受容されるのか、またそれがどのようなものを人に与えるのか、という問題になる。先に言ったように、それが差し当たり、きわめて率直に(というか嗜虐的にというべきか)受難を描くことを通じて結局愛と平安を示唆するものであることはたしかだ。ゲッセマネ後にイエスが捕まるさいにも、イエスは「剣をふるうものは剣によってほろぼされる」といい、彼はいわば一貫して無抵抗である。イエスが「剣をもたらす」ような側面は(抽象的な愛や真理のメッセージ以外には)よくもわるくもほとんど描かれていない。イエスは戦うというような意味で挑発的なところはまったくない。映画のイエスは肉体的にはマッチョで精神的にはきわめて柔弱である(それはギブソン自身がそうであるか、少なくとも彼のイメージの投影であることはたしかだ)。その意味では、この映画は、報復や聖戦を説くような意味での「原理主義」に行く要素は少ないと言えるだろう。反ユダヤ主義についても、キリストを描くということ自体やその広い影響力からは、そう見られてしまう点はあるのは仕方がないだろうが、しかし映画自体はそういう筋をとくに宣揚してはいないと言える。ピラトが手を洗ったあとで群衆が叫ぶ、「その血の責任はおれたちとその子孫で結構だ!」(マタイ27:25)という言葉も(当然だろうが)拾われてはいない。

空洞化したキリスト教の信徒に信仰の具体性を恢復させる働きがあるだろうということは、先に述べた。アメリカでは、9.11以後のアメリカ人の受難感覚と重なって受け止められるいるだろうという解釈もあり、ある程度納得できる(高成田享 http://www.asahi.com/column/aic/Mon/d_drag/20040426.html)。先ほど原理主義には直接は行かないだろうと言ったが、しかし、実際は大変に攻撃的でも、自分自身の内部では被害と受難の感覚に満ち溢れているようなこともありうるから、そうした機制のもとで「強いアメリカ人」にも十分共鳴されるかもしれない。また、こうした受難感覚は、アメリカに限らず、他地域でも・また他教徒でも、現代の状況とも相俟って、かなり共鳴されるかもしれない。実際、最近、中東から戻って来たある人は私に、中東の知識人には映画にかなり共感的な人も多く、彼らが「これは我々の状況そのものだ」と言っていると話してくれた。そういう人がどれほどいるかは判らないが、ともかくこの場合は、映画におけるユダヤの祭司や民衆と現代イスラエルとが重なっているわけである。さまざまな状況の中から「受難」物語が共鳴作用を起こすことがわかる。ただいずれにせよ、それがどういう変容をそれぞれの人にもたらすのかは判らないところがある。

キリスト教信徒でない者あるいは非正統的なキリスト教徒にとってはどうか。先に述べた、キリスト教正統的な寓意的要素は、しかし、うるさく説かれているものでは決してなく、映像の中にそれとなく埋め込まれているから、それが非信者にひっかかりにはならないだろう。むしろ、寓意的であるがゆえに、伝わるかもしれない。そして何より、キリスト教的神学や論理を述べるというのではなく、文字通り受難という「犠牲」をこそ描いたという点において、この映画は、意外に他教徒にも理解できるものになったのではないか、とも考えられる。ただ、肉体や血への集中、その聖性をほのめかすような部分は、キリスト教徒には当然理解されるか、まあ理解しなければ少なくとも正統的キリスト教徒ではないことになる。それは、他教徒には、見過ごされるか、それとも犠牲の論理の延長として理解されるだろうか──。非正統的なキリスト教徒にとっては、その人がどのように非正統的かによるが、キリスト教的寓意がそれほどうるさくない点、だいたいすんなり入って来る点は、「十字架」を強調する人なら、これはいいと評価するかもしれない。それは多くのプロテスタントの態度であるかもしれない。

考えられるのは、そのような受難への集中と肉体や血というものが、あるいは先にギブソンの想像力や知性の「狭さ」をいい映画で「残虐シーンとわずかな甘いフラッシュバックばかりが残る」のではないかといった点が、この映画を、きわめて強烈だがだからといって変化すべくもないいわば感覚的体験に留めてしまう可能性がある、ということである。先ほどどういう変容を起こすのか判らないといったのも、このことがあるからである。その「感覚性」は、映画をさらに位置づける歴史的あるいは教義的な配置を知らない他教徒にとって特にそうだし、現代のいわゆるキリスト教国の人々にとってさえそうかも知れない。この点は、素養の豊かなキリスト教国では、一層問題になるかも知れない。逆に、非キリスト教国では、それはあまり問題にならず、ただ「すごい」といって評価されたり、あるいは「いやだ」といって気味悪がられる、いずれにせよ感覚的理解にとどまる可能性がかなりある。

そのことは、興行的には、だからこそ観客を引き寄せるかもしれないが、そうでもないかもしれない。意外にも、実存哲学や現代的な「語りを拒否する人たち」によって好感されるかもしれない。いずれにせよ、それはどうイエスやキリストの理解や想像に資するだろうか。あとはそれぞれの人・文化の問題だろうか。ぼく自身は、脱構築は批判主義としては有効だが所詮究極的には論理的にも成り立たないと考え、むしろどのような語りがもたらされるかこそが大事だと考えているので、この映画の「狭さ」あるいは語りの安易さは、肯定的には感じられない。それは、たとえ原初的な何かに突き刺さっているとはいえ、イエス・キリストのもたらした豊かなものを、きわめてイメージ的に大仰かつ念入りではあるが、いささか「低能な感じ」に圧縮し──といえば言い過ぎなら、あまり「思索には誘わない形」に凝縮しており、それが現代文化を象徴しているようにも思われ、何か残念な気もする。

この映画が感覚的だということから、反応として、それら感覚をめぐる受容・反発というだけでなく、そのカテゴリーを越える、またはそれとは違う別の道があるはずだと考えられ、それゆえに翻って映画が端的には肯定されない、という可能性もある。つまり、先ほど来の「偏り」(暴力偏重・愛無垢)や「狭さ」をめぐって、「いやそれ以上のものが実はあるではないか」と考えるのである。OY氏が教えて下さったところでは、「アメリカのTime誌が、この映画に触発されて"Why did Jesus have to die?" という特集記事(4月12日号)を出し」、そこでは「いわゆる救済論の神学の歴史が縷縷書かれ」ていたりするそうである(ぼくはまだ見てない)。その記事が、映画を肯定しつつ補おうとするものなのか、不満をもつがゆえにそう書くのか、どちらかはわからない。Timeだと前者のような気もするが、Web上では「Mel Gibson's movie has thrust this powerful question back at the center of Holy Week」ともある。 いずれにせよ、そこに不足があるとは感じられているのだろう。ただ、つっかえ棒の建て方はいろいろあり得、それによってはどういう方向に行くかわからない。

すると、改めて気づかされるが、映画は、そういう〔感覚を越えた〕ところに敢えて立ち入らず、見た者がショッキングでありかついろんな投影をそこに起こせるように、わざわざ「狭く」「偏ら」せたのかもしれない。だとすると、これは足りないというよりむしろ高等戦術というかそれなりに「賢い」ということになる。いろんな人がどんどん見て、あとでいろいろ言いたくなるようにするのは、映画を始めとする媒体が少なくとも興行的に受けるための秘訣なのかもしれない。だとしても、その不足・偏りが、意識的なのかそれとも巧まずしてか、ギブソンなり現代の映画なりはそういうものなのか、わからない。私としては「そういうもの」なのだと言いたい気がする。

「カテゴリーを越える、またはそれとは違う別の」道については、いま述べたキリスト教的文脈とはまた異なる局面からの反応が、とくに非キリスト教地域では、あるかもしれない。というのは、受難の論理は、暴力を受け止めることを通じてその彼方に変容するものだといえるが、しかし、たとえば、仏教はそのさい、血と肉の弁証法のようなものとはちがう、場合によってはストア派に近いような、諦めや静けさ・安らかさの中から、ある覚醒や慈悲を導き出す。これは、どう考えても、この映画が描くようなキリスト教での生け贄の道とは異なっている。愛が、必ずこのような受難の道だけによって見出されるとは言えないだろう。たとえば、やはり映画になったが、ガンジーの場合はどうだろうか。これも受難の道ではあるだろうが、それは、ギブソンの映画が──あるいはキリスト教の西欧的な肉・血・生・死等の諸象徴が──訴えるものとはまったく違っている。逆にいえば、ギブソンの映画が「とりわけいい」と感じる人からすると、ガンジーの話は「物足りない」だろう。とはいえ、ガンジーは、明らかに暴力によって亡くなり、あるいは暴力の救済に身を挺し、それはまたM.L.キングに影響を与えている。ガンジーに近いようなキリスト教やその実践は少なくないはずである。この映画のイエスも無抵抗ではあるが、しかしその内部にあるものは、ガンジーのアンヒサーやその実践の感覚からすると、どう見えるのだろうか。

その点とも絡んで、ぼく自身が気になったのは、蛇やサタンの扱い方である。サタン(死神?)が、復活の、またマリアの反対物として存在しているらしいことは先に述べた。しかし、その存在が一体何なのか、私には曖昧で、本当のところいまもまだよくわからない。そのサタンは、先述のように、ゲッセマネで苦悶しつつ祈るときから出てくる。(そのとき苦悶するイエスの映画でのあり方は、瞑想や祈りにおける苦というのとは何か違った、ゼイゼイハアハアしたもので、これにはどうも違うのじゃないかと納得できなかった。が、それはともかく)そのときにサタンは蛇を地に放つ。その蛇が地に伏しているイエスの体の下にまで入り込む。がその直後、確信をえて気を取り直したイエスが、はっきりした表情で立ち上がるのだが、その際、足元の蛇をドンと踏み潰して?立ち・進むのである。そのとき大音響の効果音が鳴り響く。

そもそも祈りや瞑想のあとにドシンと足を踏みつけるというのは、これもちょっと違うといいたい。ここにもマッチョなギブソンの「短感性」(短慮をもじっていうと)が、ちょっとしたことのようだが、大事なところでよく出ている。そして蛇だが、ここで蛇を出すのは、誘惑とか否定的なものの象徴で、これはそれを退けたという話なのだろう。がそれにしても、蛇をドーンと踏みつぶしたイエスが、なおかつものすごく甘い表情で愛や平和を説くイエスであったということは、ぼくにはどうも納得いかない。「蛇や蝮を踏むほど(大胆だ)」というのは、聖書にもある常套表現だが、それにしても蛇はゲッセマネには出てくるわけではない。それをわざわざここに出してくるのは、ギブソンの脚色である。しかし、そもそも象徴とはいえ、動物をこういう形で踏みつけにする必要はまったく無いのであって、(別に動物愛護をいいたいわけではないが)何だか、まったく理解できない。このあたりは、ジャイナ教はもちろん、仏教でさえ、ありえない感性が顔を出している。この映画の受難物語で、ユダヤ人が損をしているというなら、ユダに同伴した腐った牛?といい、この蛇といい、動物もずいぶん無神経に扱われている。だが、そもそも生贄が生贄を生むという連鎖をこそ、イエスは断ち切ったのであり、それが彼の極限的な受難だったはずではないのか。

というようなわけで、ぼくには、基本的な感性部分でも、受難論としても、腑に落ちない部分の多い映画だった。したがって、この映画の描く「愛」も、結局すんなりとは受け止められなかった。上に書いたような、いろいろな効用や努力があることは認めるのだが、しかし、異常に視野が狭いところから作られている映画だとも思った。はたしてイエスというのは、この映画が描くような血肉迸る受難をした、だからイエスであり、キリストであったのだろうか。そうだろうか。

ソクラテスでも、孔子でも、はっとさせる逆説と目を覚まさせるようなものを持っているが、イエスはまさにそうである。そういうところもこの映画は何も示唆しない。「○○の壁」を感じたといったら言い過ぎだろう。だが、これが作られそれほど流行るというのは、しかし、世界に「壁」があるということである。みんなもうずいぶん自由で気まま勝手なようで、じつは心の余裕がなく、イマジネーションや知の働きがもてなくなっているのかもしれない。それでも、人は生きるし死ぬし、メディアをめぐって大金持も生まれる。しかしそれは落ち着いた気持で覚醒するということとは違っている。そしてイエスも、人間が生き死にすることをめぐって作る「壁」を、重力を脱するときのように苦しんで越えていったのだろう。だから彼はキリストなのだ。はっきりいうとぼく自身には、ゴータマ・シッダルタが見出した「苦」と、イエスの「受難」とがまったくちがうものとは思えない。


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今話題のメル・ギブソン監督の「パッション」ですが、僕はまだ残念ながら見ておりませ
す、凄い【川瀬のみやこ物語 episode2】at 2004年05月26日 15:38
映画『パッション』を観てしまってからの旦那の奇行ぶりと、妻の受難の物語…のようなもの。
“The Passion of the Wife” <BR>メル・ギブソンの『パッション』、そして私の受難【Art Grey】at 2005年02月20日 17:42