人質やその家族についての日本国内の反応について、この数日少し書いたけれど、また少し考えた。もし読んでいる人がいたら、またかと思って飽き飽きするだろうけれど、ご容赦。
蕩尽伝説氏の議論は、その後また展開があって教えられた。レヴィナスは、「他者の虜になること」のなかから、つまり他者を先立たせ・その捕囚として彷徨うことのなかから、(「存在すること」から出てくる「充実した主体」とはまた「別の仕方」での)主体が見出される、と論じているのだという。(以上のまとめは、伝言ゲームになっているので間違っているかもしれない。)
「存在すること」から出てくるある充実した主体というときに、レヴィナスは、ハイデガーを想定し、さらには、ヨーロッパ伝統の存在論の自同的な自己・実体的な自己みたいなものを考え、その権力作用を批判的にみているのだろう。またそういう存在・主体の方が、じつはまた虜囚なのだみたいな考えもあるかにも思える。
いずれにせよ、このレヴィナスの議論は、ユダヤ・キリスト教的な、ヘブライズム系の存在や価値の専横をひっくりがえす論理があるようで、面白いと同時に、それはそれでまた限界面やトラップがありそうである。蕩尽伝説氏が「ひどく貧乏くさくて自虐的……もっとも、人質・虜囚という問題の立て方はおもしろい」というのも同感できる。このうち、前者(貧乏くさくて自虐的)のところは、たぶんニーチェが(キリスト教についてだが)奴隷道徳だと言った、それにつながるような部分だともいえるかもしれない。
もちろんレヴィナスやレヴィナス主義者は、その限界を指摘されても、「そんな俗論には填らないよ」といって一種の高等論理を準備しているに違いない。が、そうやってひっくり返しの絶対領域みたいなものを設定すればするほど、その領域確保とセットになって、その批判者と、とてつもなく対抗しているようで、じつは奇妙な共犯関係が結果的・歴史的に生まれるような気がする。レヴィナス自身はともかくレヴィナス主義者は、少なく日本では、そうした社会性に盲目なことが多いように思える。それが、彼らが深刻な顔をしながら元気でいられるヒミツであると同時に、その能天気は無惨でもある。それはたぶん、「反対派」を余計に苛立たせるだろう。
いや、そんなことをとくに言いたいわけではなかった。言いたいのは、この存在と非存在、主体と虜囚といった問題にもっと考えてみるべきものがあるということだ。主体と非主体、勝ち誇る者と虐げられる者といったものの関係は、簡単ではない。よく言われることだが、主体は臣従、虐待する者は虐待される(された)者……といったその他いろいろな関係があったり内部転換があったりする。
人質だった人間を悪し様に言いたくなるというのは、いったいどういうことなのだろうか。人質だった者がたとえ高尚でないにしても。。。 このあたり、また論を続ける。
