2004年04月20日

「非国民!」続考

最近あらわになった「非国民!」的言論について、「パターナリズムへの恭順が求められる類の国家主義」だと述べた(2004.4.18)。その考えはもちろん今も変わってない──まだ2日だものね。しかし、そういう怒りや脅迫の質について、もう少し考えすすめねばならない点があるな、と思った。

それは何か、すぐうまくいえないのだが、気づいたのは、そういう怒りや脅しまがいの言い方の中には、もちろんマッチョなものもあるだろうが、意外にウェットなものが裏に貼りついているものも多いんだな、ということである。つまり、「心配をかけやがって」といった情動的反応がそこにあって、それが大きくなったときに、裏切りのような感覚を伴って怒りや憎しみや差別に転化していく、そのような類の心がそこにあるような気がする。

その証拠に、まずは人質の生命の行方を心配する・救助するということ自体には案外ジャーナリズムも政府も前提しているところがあった。ところが、その相手がそういう「善意」(!?)に値しない/それが判ってない(連中だ)ということになってくると怒りを倍加し、先のような反応になり、同時にまた恐縮しろ・詫びろというような要求になっているかに思える。以上は時間的な言い方だが、構造的にいうと、もちろんもう最初から敏感にこいつらはけしからん奴だと気づいていた人もいたみたいだが、そういうパーセプションが、次第に表にわっと浮き上がってきたような感じである。

人称論的に別言するならば、ここには(ぼくには)異様といってよいような、二人称的なものの社会空間へのインフレ的投影・増殖があり、それが裏返って、怒号や憎悪になっているような気がする。もちろん、そうだとしても、これは政治学的にいうとパターナリズムということの範疇内のことではある。が、心理的・倫理的にいうと、そういうところがあるのではないか。このあたりの力学というか機制については、さらに考えて行きたい。







この記事へのトラックバックURL

http://app.blog.livedoor.jp/krzm/tb.cgi/50940026