2004年04月18日

「非国民!」の再生

人質になった3人、行方不明になった2人、どちらも解放されて戻って来た(来つつある)。そのこと自体はよかった。だが、その事件の過程で、彼らとくに始めの3人に対して、他の人々に迷惑をかけたとして非難して脅迫したり、非国民呼ばわりする人々がものすごくいるのには愕然とした。そのために、家族や本人たちは、まるでお白州に出るかのごとく「公」の前で恭順の意を示させられている。この人たちはこれから当分、頭を下げ続けて生きねばならないだろう。そうしないと、石が飛んで来るような雰囲気だ。

そもそも、ジャーナリストやボランティアが少々の危険地帯に行くのは、大きく咎められるべきことだろうか。そうとも思えない。たしかに、彼らの行状には、軽率さや落ち度がある程度はあるだろう。が、掴まったこと自体は、そもそもアメリカ軍のファルージャ攻撃のせいで突然にそんなことになったのである。それは彼らの予測を大きく超えており、その事態の原因はというと、結局はアメリカ軍にある。その意味では、彼らは、誘拐犯のみならずアメリカという強盗に突然出会ったようなもので、大いに被害者でもあり、軽率さへの非難も少しは減じるべきである。

それに、イラクの問題は、地球上のだれもが関心をもつのは当然のことであり、それを見捨ておけない、見ないではおれないというジャーナリストやボランティアの「意」自体は敬すべきだろう──アメリカのパウエル国務長官でさえそう言っている(その後、これが朝日の意図的誤訳だとか撤回するしないという議論にもなっているらしいが)。しかも、彼らはイラクの人々との間でむしろ信義を醸し出し確認できたという功績もある。彼らがたとえ少々未熟だとしても、イラクのことに関わろうとする市民がいるということは、そもそも国として恥ずべきことではまったくない。イラクに制度や集団によって連れられて行った国民は少なくないだろうが、みずから個人が行った国は多くないだろう。つまりそれは損得づくでも軍事力によってでもなく地球的配慮をする人がいるということである。そういう市民をもつということ自体は人間としても国としても決して悪くない、むしろいいことである。そのような希少な人と意が存在することは、その未熟さを少し問題視できるとしても、自慢できなくても少し誇ることぐらいできるのではないだろうか。実際、日本人とは違ってイラクの人々が彼らにむかついたという話はまったく聞かない。おそらくイラクの人々は彼らに好感をもったのではないか。だからこそ彼らは解放されたのである。したがって、それほど危険でさえなければ、そういう若者は今後どんどんいてもいいほどである。

にもかかわらず、ファルージャの悲劇もイラクの人々のことも、市民的活動や自由な報道の意義も何も思わずに、ただ金がかかった、国の言うことをきかなかった、騒がせた、やめろ従え、といって、彼らを非難できる神経は、よほど料簡がねじくれて小さくなっているのではないだろうか。(読売新聞などは、「金のためにフリージャーナリストが群がっている」などと書いているが、こういうことを安全地帯の定収入取りが得々と言うのは、「ジャーナリスト魂を去勢されて太鼓持ちになっていないか」とみずから振り返ったらどうだろうか。)

「退避勧告を出していたのに行った」「その面倒を見るためにかかった金を払え」ということだが、その「邦人保護」の陣容を──しかもほとんど無益な形で──大仕掛けにしたのは、政府や国内ジャーナリズムであり、それこそ勝手、自己責任というべきである。10億円使ったとも20億円使ったともいうが、そもそもそんなに空騒ぎしなくてもいいのではないだろうか。効率的にやったとも思えない。チャーター機を飛ばす、その金を払えといっていたが、結局飛ばさなかったらしい(──結局アンマンあたりで飛ばした分を60数万円分要求したというニュースにあとで接した。4/22記)。詳細はともかく、政府は自分たちが無益ではなく救済機能があるかの如きを自己証明しようと演じ、またそれをマスコミが余計に煽ったのではないかとぼくには思える。(それと呼応して?か、家族が政府に期待を投げかけ続けた面があったのは、気持は判るとは言え、翻って今度は恐縮し有難がらねばならない理由をみずから作っているところがある)。

政府がふりをし見栄を切ろうとしているその「努力」は、しかし解放に役立つどころかもしかするとそれを遅らせたり逆に働いた可能性さえある。少なくとも相当に空回りしていた。にもかかわらず、それと共に起こった日本の一斉の大騒ぎには、ぼくの感じでは空恐ろしいものが含まれている。かくも軽率・無謀を大非難するということは、別言すれば、軍事力の現実とそれによる国家のパワーを認めろ、その「リアリズム」に服せといっているということである。実際、「今度の事件で政府・自衛隊が頼りになるし、それしかない、ということが判った」という記事があった。だが、果たしてそうか。ぼくの感じはまったく逆だった。

ぼくは一貫して、国家や軍事力がむしろ頼りにならないということが露呈したと感じた。まず3人の解放だけ考えても、国家の働きはむしろ逆説的だった。その側面については、4.13,4.14に書いた。これについては、宗教者協会の働きはわかっているが、日本テレビで通訳として働いていたキデル・ディア氏の動きも奏功したという説もある。いずれにせよ、決定的に働いたのは、国家に服することによる力や安全ではなく、市民として信頼できるということの力だった。彼らの解放は、さらにいえば、イラクの平和が、国家や軍事の論理以上のものでこそ動く部分があることを逆によく証明してくれているのかも知れない。

では、(国家や軍事力は)解放には「頼り」にならなくても、解放後には「頼り」になったか。まったく、そうではなかった。それどころか、解放後、「国家」というものは──機関がそうだとはまだ必ずしもいえないが、かなりの政権担当者や、また国を構成する多くの国民たちが──いかにひどい圧迫をするものかを、このところの《「政府」「国民」相携えながら市民に対して国家への帰順を迫るの図》はぼくに如実に示してくれた。そういう全体主義を「頼りになる」と感じることは、到底ぼくにはできない。危機から保護してくれたかどうかあやしいが、それどころか戻って来た者を非難しさえするのである。そういうものが頼りになるだろうか。ぼくはむしろ不敬を難じられて職を辞し家に籠もらざるを得なかった内村鑑三のことを思い出した。そして、国家を超えたそれ以外のつながりを持っていなければ、これはもう生きていけない世界だなと思った。

(国家というのは、国民の生存保護のために、いつも一生懸命になってくれるものだろうか。それなら助かるとはいえるだろう。けれども、 あのように騒いでもらうことが本当に有効で有り難いことだったのだろうか。その不確かなものをあまりに有難がれと言われるのは、国による生存保護は、権利によってというより、国家への忠誠の度によって適用されるのだぞ、と言われているようである。だとすれば、それは法的にもおかしい。) 

で、公明党の冬柴氏などを始めとして強調された「金を出せ」論だが、勝手に国家のパターナリズムを肥大的に演じておいて、今度はその演技料・迷惑料を出せというのだとすれば、それは、余計に動いてみせた親分に礼料を払わなければならないというような話だ。その親分の子分たちが「親分さんはこんなにお疲れになったのだ、また俺たちの『組の金』を使ったんだ。どうしてくれる」といって凄んでいることになる。無駄なことをしたのに、金を出せ・有り難がれ・詫びろといっているのは、言い換えれば、それが無駄でない価値あることだと認めろと迫っているということである。そして組=国を有難く感じるかどうか、踏み絵を踏め、みかじめ料を出せ、といっているわけである。

こういう論者にとって3人は、そもそもが「お上の言うことを聞かず、その意向に反対したとんでもない輩」であり、そのくせに「お騒がせして親分のお世話になった(またそのとんでもない不埒さゆえにじつは解放されて親分の「顔潰し」さえした)けしからぬ者ども」である。だからこそ、いっそう「恐縮しているかどうか」が問い迫られるのだろう。このあたりの非難の嵐は、ただのコストをめぐるニュートラルな議論だとは思えない。しかも、そういうことを自民党の国家主義者がいうならともかく、公明党がいうのは、そのエートスをやはり露呈していてびっくりした。

それにしても気色の悪い社会になってきたものだ。戦前戦中の「非国民」というごとき、国家主義とこれに帰順する論理が大手を振るようになったのだから──。先に書いたように(4.13)、地球上では「国民であること」と「市民であること」の差異が露呈している。しかし、だからこそ、「国民である」という方向に人間と事柄を回収すべきだとする衝動がこうして世に大きく昂ぶってもきたわけである。が、ぼくは、それが将来を見出せる道だとはとうてい思えない。むしろ破滅的な自閉の道だと思う。国家の範疇に帰順しないといって人に石を投げるようなことでは、そんな「国民」自体ダメである。それこそ「テロ」である。そうではなく、市民的な活力や視野があってこそ、国民も健全なものになれるはずである。

本当にイラクの「人道支援」をしようという政府なら、せめてこう言ってほしい。──たしかに危なかしかったしコストも少々かかった。けれども、そういう市民やジャーナリズム自体はあってよろしい。たしかにこれらの人たちは、政府とはやり方は違うし、結果的に難が生じた。しかし彼らもイラク民の人道支援者・友好者であろうとしたのだ。今回問題が生じた点については、確かに時期や危険の弁えをしてもらねばやはり困る。しかし、政府は、そもそもそういう市民や報道の活動があること自体を否定するものでは全くない。むしろそれは今後必要になるだろう。ただ、注意と配慮をすべきである。そしてやり方をよく学習し、今後も活動するならば、いっそう真に効果的にやってもらいたい。するとそれは他地域の人々から信頼され、君たちだけでなく、国民の名誉も高めてくれるだろう。

というぐらいのことは政府・国民は言えないのだろうか。そう言うのであれば、自衛隊派遣をした・しないにかかわらず、その政府の「人道支援」の真意は少なくとも信ずることができ、その政治的寛容をぼくは誇りとすることができる。やり方や意見が違っても、やはり我が国は「人道国家」であり、国民にも「道がある」と考えることができ、意見の違いはただ戦略的なものなのだと考えることができるかもしれない。だが、どうもそうでないのは残念至極である。結局、「パターナリズムに応じて恭順が求められるような類の国家主義」が露わになっているらしい。けれども、そうでない道を充実しきたえることの方が、日本をふくむ諸国民のためにもなるはずである。



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