人質事件をめぐって、先の記事で、「テロ」という言葉を書いたけれど、しかし、ちゃんと見るならば、人質事件の「犯人」(武装組織)を、従来型の「テロリスト」と同様視しては、ことを見間違ってしまう。もっと見極めるべきだ。人質事件の「犯人」像について、間に立つ聖職者たちは、何度も彼らはファルージャの普通民だ、と言っている。つまり、いわゆるアルカイダ系等の「確信犯」や旧フセイン残党ではなく、これまで動いていなかった現地人で、それがあのように動いたのだと言える。
彼らは、アメリカ統治に(反感は持っていたかもしれないが必ずしも)動いていなかったのだろう。が、おそらくはファルージャのアメリカ攻撃を機に、これはひどい、たまらん、という危機感・破滅感とともに意を決して行動、外国人誘拐を梃子にアメリカおよび同盟国に抵抗しようとしたのだろう。それが、諸外国人を巻き込む行動になっている。だから、背後には、ファルージャを代表とするアメリカの市民虐殺等があり、これに対する現地民の反発、それを阻止したい気持があるはずだと思われる。そこになおもいろんな利害も絡み、それに伴う動きもあるもあるのだろうが──。しかしいずれにせよ、その動きを発動しているものは、アメリカの統治軍の行動であり、それに対する反発である。それが「盾に取る」行動に出させている。それをただ「テロ」と決めつけることはできない。
小泉首相は、人質事件に対して「テロに屈しない」と言った。また日本の一般の論調でも、ただ治安悪化とか、テロリスト跋扈とかいったに近い言い方が多い。が、それでは、彼らの実情の芯の部分にあるだろうものが見えなくなってしまう。「従来型のテロリスト」と「アメリカの攻撃という危機を背景に動き出したイラク民」とはゴッチャにはできない。だからこそ、その「テロリスト」呼ばわりが、むしろ怒りを生んで彼らに3人の解放を止めさせてしまったという説(聖職者談)もある(バクダット4月14日・共同通信)。
人質事件を起こしたのはイラク現地民のアメリカへの憤激であった。そうであるがゆえに、最初は、人質がアメリカと無関係であることを示すことで、解放されるチャンスがちょっとあった。しかし、今やそのタイミングは過ぎている。人質はアメリカと彼らとの関係にもう組み込まれてしまっている。とすれば、いまや事件は、根本的には、アメリカが攻撃など乱暴をやめて、少なくとも犯人=抵抗民たちが「アメリカも俺たちへの破壊・損害ばかりしているのではない」と思えるようにならない限り解決がないように思える。犯人=抵抗民たちがこういう盾に取るような行動を取らない済むような状況が現れることが必要になる。
アメリカ自身が自制しないなら、本当なら少なくとも日本政府はチェイニーに「あんたらが暴れるからこんなことになるんじゃないか、やめてくれ・無茶をするな」というべきである。けれども、たぶん「救助してくれ・情報教えてくれ」ぐらいしか言えてないだろう。ならば、市民的なチャンネルでアメリカを自制させられないものだろうか。public citizenにとって何が可能なのか考えさせられる。もちろん政権が変わるならば、一番確実な解決の道だろうが。
