「人称」(person)という言葉にはじめて出会うのは、たいてい外国語を学ぶときである。対象を指すことばについて「ひと」を中心にして分けて数え上げ、一・二・三人称、またその単・複数などという。だが、そうした言(ことば)のあり方の背後には、そう捉えられる物(もの)や事(こと)がある。それは人称のいわば社会的・倫理的側面だといえる。その側面も考え入れていくと、人称は、たんに言語使用においてだけでなく、まさに人間を種々に捉え・これと向き合う際のカテゴリーであり、ひとがひと・ものと出会い世界を体験する位相となり結節点となっていることがわかる。
鈴木孝夫氏は、一・二・三人称をそれぞれ自称・対称・他称というべきだとしている(『ことばと社会』岩波新書)。この自・対・他という言い方は、personの「立ち現れ方」を如実に示すという意味ではすぐれている。だが、いずれ、personはこの三つに限らない様々な現れ方・消え方をするのだし、person自身が相となって転じてそこから別の世界が開閉・生滅したりさえする。人の生活の意味や認知・実践は複雑な生成であり、それは「ひとがひと・ものに出会うかたち」としての人称に大きく掛かっている。
簡単な例を考えてみよう。ひとは、誰かに真面目に接し、その人との間で内容のある言葉をちゃんと聞こう・言おうとするとき、「かれ」との関係を、いろんな媒介をへるにしてもより「直接に」しようとする。つまり「あなた」との関係で行おうとする。しかも、興味ぶかいことに、だからといってただ相手と一体になってしまうのでは「ない」ようにすることも多い。そうしたことのため、「(面と)向き合う」か、飲食をするかしないかなど、行為・ふるまいのあり方を選ぶ。これは明らかに、三人称だったひとを二人称──私・汝──関係にもたらそうと意志し、と同時に、自他を同化してはしまわない仕方をも考えているのだといえる。
その逆の方向も想定できる。それがどうでもいいか・他に多大なことがあるなら、「かれ」をあえて「あなた」にしようとはしないか・またはできない。そしてそのことが重なれば「かれ」は「わたし」から離れて過去のあるいは遠い「距離をもったもの」になるだろう。それは二人称が三人称になる、あるいは無人称になることだともいえよう。たとえば、多くのひとが年末年始にたくさん年賀状を交わす。それは、そのような三・無人称化の方向に「ならない」ために、逆に「互いの二人称化」をはかっているのだとはいえまいか。
その三・無人称化の方向は、もっと推し進めていくとどうなるだろうか。そう「なってしまう」ならば、おそらく、生き生きとした時空が失われ、ひとはいわば物化した世界に至るのではないか。では、二人称化の方向はどうか。これについても、たとえば深すぎる・または頻繁すぎる交誼が桎梏になることからもわかるように、ひとはそこに「とりこまれてしまう」ことがあり、それが反転、近接が反発を愛が憎を生む、といったこともある。その正負の陥穽に巻き込まれないような冷静さ・公平さは、三人称化によってもたらされるのだと考えられる。かくて二人称にも三人称にも、ひとの生のかたちの、それなりの産出性と限界とがあるのだろう。(一人称についても同じく考えられるが、複雑になるのでいまは省く)。
いま三・無人称化で顕著に出てきた「物(化)」は、これをめぐって倫理問題が分節する。たとえば、わたしが誰かとひととしてまともに向き合いたいにもかかわらず、その人が自分を、(1)モノ・カネだけを介して接するものとして扱ったらどうか。それどころか自分を、(2)物=「それ」のように(たとえば「虫けら」のように、あるいは「路傍の石」のように)見たり扱ったりしたらどうか。これらでは、二人称として認められたい自己が、三人称ないし無人称さらには非人称として扱われているのだといえる──いま「非人称」とは(文法的には問題があろうが)元来人称的であるものの人称性が否定されたモードだと考えておく──。とはいえ、(1)の局面(物件としてのひと)自体がいけないのではない。経済や生命の活動において(1)の充足は重要であり、その条件すら欠くならば、そのひとはもう(2)の非人称化を生じたことになる。その回避と充足の実現はまず第一の倫理問題である(必要条件問題)。だが、その(1)を越えてひとはさらに、より人称性を充実した「人間的な」次元を作ろうとしているのだ、ということができる。これは第二の倫理問題になる(十分条件問題)。
倫理的な判断・感情や関係の形成にはこうして諸種の人称の現れや消滅が関わっている。そのことを古来の思想はよくとらえていた。右にふれたように、ひとは自己中心的になると、他人のことをつい「物扱い」してしまいがちだが、それを「人扱い」すべきだと聖賢たちは説く。孔子は「終身これを行うべき者」として「恕」=「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」をあげたという(衛霊公)。イエスは「己の〔人より〕欲するところを人に施せ」と語ったという(マタイ7:12)。これら道徳的行為の黄金律とされるものは、いわば《人称性を侵害しないように/実現するように行為せよ》と述べるものだといえる。同様の論理は、カントの定言命法にも含まれている。
人称の生成をめぐって興味深いのは、やはり無・非人称化されがちなものが三ないし二人称として立ち現れる場合である。たとえば、孟子は、井戸に落ちそうな幼児を見るとひとははっと胸が衝かれて救おうとする、それは子の親と仲良くしたためでも郷党から誉められたいためでもない、と述べている(公孫丑上)。イエスは、盗賊に半殺しにされて倒れていた旅人を、立派な聖職者や学者は見て見ぬふりをしたが、サマリア人は手当てし宿につれていって看病させた、という喩話をあげ、その強盗に襲われた人にとって「誰が隣人か」と問うている(ルカ10:25-37)。
どちらも、通常の利害や共同体的な習慣や権威名声とはちがう、むしろそこから見捨てられたところに二人称を見出す、あるいは二人称的な営みを内閉することなく三人称的な存在者に及ぼす、そこに惻隠の心(仁)や愛があると説いているのだといえる。先の黄金律の場合と同様、その方向づけは、儒教では消極的ないし生成維持的、キリスト教では積極的ないし革新的だというニュアンスの差があるようだ。しかし両者とも、たんに私的利害や公的権威名声に固着せずそれを突破するところに、人称的関係の生成を開こうとしている点は軌を一にしている。
人称をめぐるこうした思考や実践の成立は、「聖賢が言ったから」「学術の権威によって」「特別の悟りによって」初めて可能になるといったものではない。右のたとえの卑近さにもわかるように、人称的な想像力や行為は、いわば言葉の原義における「常識」「良識」として生活世界のうちに働くのであり、またそうして継承されて来たにちがいない。これを「仁」「愛」「おもいやり」「ケア」あるいはそのほか何というにせよ、それらは通常の人々の人間知や知恵・ふるまいにこそ育まれているのだろう。聖賢の言は、それをあらためて「目醒ませ」「及ぼす」ことを説いているに過ぎない。
この誰もが知る人称の背後には、しかも、ひとの生死する領域がふかく隠れている。人称(person)すなわちペルソナは、歴史的には、文字どおり人格であり超越者・根源者の位格とも捉えられてきた。言語的にも、人称詞に親族名称や方向指示詞が用いられることがよくあるように、人称は、元来は父・母・子であったり友であったり、神・仏であったりし、またコ・ソ・アでもありうる。つまり、人称の背後には社会関係、世界との関係が多様に広がっている。そしてその大きな広がりのなかから、ひとは人称的世界を生死しつつ作り出しまた継承してきたのである。その際、人称が視点と世界の転換に関わることも当然重要である。それらは意識あるだれもが知ることである。にもかかわらず、それを平板な学問や知識はほとんど理解しない。人称をめぐっては、ひとびとの生活世界のうちに働く意識やその表現としての文学の方がよほど敏感だったのではないだろうか。
以上では一人称の問題をあまり述べなかったが、これだけでもわかるように、人称には様々な働きがありまたそれぞれの生成や陥穽がある。人称をめぐる想像力が求められるゆえんである。けれども、人称をめぐるのびのびとした思考や実践は亡失させられることがある。なぜだろうか。それを考えるには、様々な人称の論理からだけでなく、そこに加わて見るべきものがある。孟子にとって、幼児を見つける心を忘却するのは、たぶん戦国の世における利害争奪の心・ふるまいだった。またルカ伝で、旅人を見捨てさせるのは、共同体や律法と結び付いた権威の自己保存的なちからだった。一般化するなら、「ひと」を見させなくするのは、個人や集団のエゴイズムや権威主義だといえようか。だが、現代においては、それらはきわめて媒介的なあり方をしている。
現在の社会システムや客観的な知識・技術は、世に受肉している「人称としての者」(自己)を極度に単純化しただ論理的な実体か機能かのように捉える。その作業は、世界をある界面に投射するためには妥当性もある。が、そこに作られたものは、それ自体ひとの人称的努力による、特定面に厳密だがきわめて限定的・抽象的な世界図式である。それを、通常の「ひとが生きる具体的な世界」における認知や実践と単純に重ねてしまうなら、それは問題である。それは、生活世界において人々が培って来た、ひとをひととして扱う感覚・知恵やわざはもちろん、そもそも人と人とが向き合い・やり取りしつつ生きているという事実自体を忘れさせ、ときにはそれらを抑圧することになるからである。そこからは、むしろ無意識の形で、種々の人称の陥穽から起こる統御できない暴力が噴出することもありうる。
とはいえ、人称を忘却した現代の学知や制度のシーンにも、その回復の兆しはある。法・倫理・医などとくに人間と接点のある局面で、「ひとを組み込んだ」パラダイムへの変換が起こっているようだ──物語(narrative)論のアプローチはそのひとつだろう。生態学や環境論についても同様である。また、人称の忘却と失調をもたらす現代のシステム自体が、他面で、遠きにあるひとの現場や肉体を近くに媒介し、内にあるものと外のそれとをつなぐ働きを大いにもっていることも重要である。
このようなグローカルな可能性を、システムの自己目的のためではなく、人間のもの・エコロジカルなものに転換するという課題を、哲学はもつのではないか。その仕事は、外に物化した「公」と内に閉じた「私」の間に、人称的な想像力の領域を開くことだとも言える。「ひとを知る」ことは、古来から知恵の始まりだと考えられた。そのことは現代でも、いな、現代だからこそ、いっそう重要だといえる。
