2004年03月22日

vicious circleとしての賄賂と暴力

賄賂というものは、近代人が非難するほど、「悪い」ものか、という疑問をぼくは持ってきた。もちろん悪代官風の賄賂や、キックバックが「よい」というのではない。そうではなく、賄賂の類が、社会的なある制度になっていて、それによって、経済的な利潤がプールされたりフィードバックする、あるいは何かを保証するなど、一種の合理的機能も何ほどかあるのではないか、そんな側面も推測されるからだ。

たとえば、現在のような学校制度に保護されていない昔の教師は、生徒や周囲からの「束修」(付け届け)によって生活していた。それは羞じることではなかった。まあそれは賄賂というべきではなく、喜捨というか贈与というべきだろう。だが、一般に何かを人にしてくれと頼む際に、(特にそのポジションがはっきり決まっていないとかすることに流動性があったりする場合は)、「心付け」を個人的に渡すことはかつてはよくあった。ぼくの子供のころ、引っ越しのお兄さんに親が(支払いとは別に)ちょっとお金を渡して「よろしくね」と言ったり、宿の仲居さんに大人がちょっと百円札?!か何かを渡しているのを見たことがある。そういう「心付け」のような金品の流れは、何らかの仕事や協業を成り立たせるための仕組となっていることもあったようだ。ただ、その必要の度が甚だしかったり、それで特定の誰かが特に贔屓される、などといったことになれば、問題だろう。また、すでに十分な給与を他からもらっており、いわば満たされているのに、なおかつ「束修」や「心付け」を得る/得ようとするならば、それはおかしい。

現代でも、第三世界では、公務員だと思っている人から事を処理するときに軽く「ゆすられ」、お金を渡すことも少なくない。それはむろん賄賂といえるだろう。だが、ある程度社会的に制度化している面もある。それが権力を肥大させる面もむろんあるが、それが無ければ貧しい役人は食えない、あるいはそれでよりたくさんの人が食べている、などといった側面もある。そういう支払いを困った人から取るのは非道といえるが、金持ちの余所者から取るのは、個人的にはともかく全体としてはささやかな差別の是正であって、公正であり、それを払うのはnoblesse oblidge?かもしれない。(とは言え、それも、小さいとはすでに利権を持ったものがそれを「募る」もので、より貧しい者に対しては結局収奪になる可能性は大いにあるだろうが──)。

チップについてはどうだろうか。これはサービスを払った「後で」渡す場合が多いが、その「前に」渡す場合もある。日本でよくあるように、店が従業員を全体として管理している場合はチップは無くなる(ないしチップ自体が回収される)が、しかし、店を場所にして、個々人が営業しているのだと考えれば、チップはあって当然である。そして、もしも顧客とサービスする人との間の需給関係=権力関係において、後者が強いようであれば、「チップ」は「渡し金」になっていくだろう。

こう考えてみると、「賄賂」のように見えるものが、どこまでが不正であるかを(まずはその当の社会のあり方に照らして)考えることが必要である。また、かりにそれが当該社会にとっても不当だと感じられることがあるにしても、それを規制するのみならず置き換える制度を準備しようとしないで、ただ倫理的に批判するのでは、(まだそれが妥当性をもつ社会的基礎が残っている可能性があるから)批判として事柄に届いていないことになる。主観的倫理に帰着するだけでは未解決の部分があるからだ。だから、自分が「付け届け不要」の制度のうちにすでに居るからといって、自分はクリーンで、他がダーティーだとも言えない。武士は食わねど高楊枝は立派といえようが、制度的に十分食えている者が、純粋のきわめて廉価な贈与を受け取らないと突っ張ることは、じつは当該の制度への防衛的な立てこもりであることさえありうる。

といったことを考えていたのだが、いずれにせよ、金力・権力を公共的な制度によって担保したり批判的に吟味したりする制度がない社会においても、やはり「賄賂」と「お礼」「正当な依頼金」の類との〈区別〉(あるいは適正価格というか)はどこかで(曖昧であれ)線引きがあったはずである。そのことはさらに考える必要がある。賄賂のことを、protection moneyというが、所場代・みかじめ料とか、保険料みたいな意味があるようだ。税は、社会的にはもともとprotection moneyから生成したのではないのか。
また、上のみた例をみてもわかるように、賄賂の問題はあきらかに権力の形成と(その前であれ後であれ)連関しており、それが文字どおり賄賂的なものになるかそうではないものとなるかは、その支配が「公」的か「公共」的かといった問題にも関わってくる。

公共機関が現在ほど成立せずその支配が完全ではない場合を考えてみる。そこにはたいてい人々の仕事を守ってくれたり、よく按配してくれる、よい親分さんと悪い親分さんとがいるはずである。鬼平犯科帳で長谷川平蔵はしばしば「過分なもの」を受け取ったりする。だが、それはいずれ仕事にとって有益なものに転化され、鬼平が一人遊びに使っている訳ではない、という了解があって、読者はそれにまったく納得している。これに対して、「悪い親分」は何をしているのか。たぶん簡単に言えば、「余計に/不当に溜め込んでいる」のである。ということは、そこでは利益の互酬的な循環がうまく回らずに、不当に吸い上げられるようなことになっているのだと言えよう。言い換えれば、そこにはvicious circleが生まれているのである。

もちろん、vicious circleの問題は、ある個別ポイントについてだけでなく、それがずっと複数連関して構造になっているのだろうし、また、あるcircle内部では、きわめてよろしく公正に行われていて、まったくviciousではない、しかし、その外との関連を見ると、「溜め込んでいる」というようなこともある。

たとえば、日本近代の国民国家システムなどは、内部的には比較的浄化したと言える方だろうが、対外的にクリーンかどうかは大いに問題である。西欧の「民主主義」と呼ばれるものも、しばしば植民地的収奪に基づいている。とすれば、それらも、賄賂と収奪で溜め込んだ親分や子分たちが、自分たちの家族や親族の中でいい家を立ててコミュニティーを作ったようなものだとも言える。

早い話、外から見るからviciousなのであって、vicious circleであるものも内から見ればvirtuousであるかもしれない。内外が裏腹に反比例するなら、外から見てよりviciousであるほど、内においてはよりいっそうvirtuousである。だから、本当にviciousかvirtuousかは、内外を通約する地平を考えないと何とも言えないのである。が、そうであるゆえに、翻って、virtuousは必ずviciousを伴い、またそうであり続ける、とも必ずしも言えない、ということになる。たとえば、ある内部的なvirtuousが、外部にviciousを伴わない場合もあるかもしれないし、またたとえ伴っていても、そのviciousを食い破って、virtuousを外にも広げる、などということもあるかもしれない。これは、いわば「善意の輪が広がる」例である。孟子がよく説く非戦論や仁義論は、その類のものを喚起しようとしているのだと言える。

ぼく自身の感覚はというと、賄賂はもちろん個別な贈与のやりとりが周流することも、あまり好きではない。お祝いやお礼として、大っぴらな場所で、何かというと花束をやろうとする日本の習慣もぼくは好きではない。こういうのは、virtuousなものが広がっているというより、私的なものが流出している感じがする。そしてそれはたいてい、viciousなものをそれで見えなくしているような気がするのだ。贈与というものは大事だと思うが、それは、何かそれぞれの一回性を含み、そのことによって何か普遍的なものに繋がるようなものがほしいような気がする。そうでなければ、やり取りはお互いがシンプルに生きていけるだけで十分だ。

以上の賄賂問題ともうひとつパラレルと思われのは、暴力の問題である。賄賂自体は「金力」だが、たいていそこには「腕力」が伴っているものである。つまり、「悪い親分」は、暴力・権力についても、vicious circleを作っているだろうと考えられる。この問題は、むろん公共性の問題と関連がある。これについても継続して考える必要がある。

ある法哲学者の人と話していたら、賄賂研究というのも(事実のみならず理論として)ちゃんとあると教えられた。そのあたりももっと知りたい。金力のvicious circleの「輪」の成立をはっきりさせ、それを解くことは、「暴力」における同様の課題にもつながっているはずだ。



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この記事へのコメント
解釈の臨界自分は自分ならざるものから生まれてくる。主体は主体以外のものから析出する。それはとうぜんとして、だから全体のほうがだいじだ、会社がだいじだ、という組織の議論に収斂され横領されて行ったのが日本のポストモダンだったと思います。自分と組織の関係を考えなおすことで日本の公共性を建て直そうというのが、ここの「グローカルさん」?の主張だと私は理解していて、それには満腔の同意の念を覚えますひとたび社会に出れば、個々人の身体に限定された近代的主体などインチキだ、と誰もが気づく。そこでいきなり「主体などというものはそもそも存在しないのかあ。そうなのかああ」と絶望されても困る(笑)あるいは「主体など要らない。会社さえあればいい」などと強弁するやつは過労死で死ぬでしょう。むしろ実際には私たちはさまざまに多様な社会的流れの結び目であり、その具体的なありようを注視すべきなのでしょう。日本の近代においてプレモダンな共同体が解体されるのと軌を一にして、さまざまな主体がしだいに輪郭を整え、姿をあらわしていた。むろんそれは形而上学的主体ばかりではない。そこには法人的主体やら、会社人間的主体やら、奉仕奉公的主体やら、義理人情的主体やら、自傷自縛的主体やら何やら有象無象が実際にはいたわけですが、その混沌としたありさまを日本の哲学者はまるで捉えることができないままだった。むろんマスコミもそうだ。日本のマスコミは今も昔も大本営発表を垂れ流しているにすぎない。社会の実像に挑んできたのは日本ではもっぱら文学者だった。事態の多くは水面下で動いていた。それはある種の「黙契」のなかで動いている社会で、暗黙の倫理規範が生き、みんなが貧乏で、分に応じた再配分に甘んじていたあいだはよかったんでしょうけど、あるとき誰か知恵者が気づいた。どうせ表沙汰にはならないんだから自分に都合のいいようにねじまげてやれ。そうなると後は好き放題、しほうだいなわけです。ポストモダンとやらに浮かれているあいだにこの国で進行していたのはそうした道徳的退廃だったのではないかと思います。黙契社会とはある種の野放図な解釈空間でもあり、自分に都合よく何をどう解釈しても許される。それが典型的に表われているのが憲法の解釈論議ではなかったか。これまで自衛隊とは何なのかという原理原則的議論をつねにウヤムヤにし、アメリカに主導されるかたちで国内の諸勢力を領導してきたわけです。そんな社会でひとから愛されるためにはバカにならなければならなかった。戦争が海の向こうの出来事である時代はそれでよかったのかもしれないが、冷戦の壁が崩れ、世界が急激に一つになり、均一化・均質化の度を強めると、逆にさまざまな矛盾があきらかになってきた。テロと内戦の時代がはじまったのです。いまや誰もが黙契社会の腐臭に気づくようになり、曖昧きわまりない黙契から明文化をもとめる声が強まっている。それは避けがたいことのように思います。日本語や日本人のエートス自体が大きく変わりつつある。いつぞや街で、泣きやまない我が子を前に、どうしてそんな悪さをしてはならないのか早口で理由を並べあげて説得しようとする異様に理屈っぽい母親を見かけました。是非は別にして今はこんな時代なのだと痛感しました。いやおうなく、いまや誰もが社会から明確で透明な定義を要求しているのです。マスコミをはじめ言論の側はこうした国民の声にまったく答えられていない。なにせ自分らが黙契社会の恩恵に護られてきたので、そのどこが悪いのか、そのどこに不公正があり、不正義があるのがピンと来ないからです。自分が悪人だと思ってるやつなんて世の中にひとりもいない。みんな自分だけは正義の味方のつもりだ。誠心誠意これまでのやりかたを踏襲すべく努めているわけです。私たちは黙契社会から明文化社会へと否応なく移行しつつあり、その過程で解釈空間が臨界を迎えようとしている。いわばそれは焼き切れようとしている。そんなことを賄賂の話を読みながら思ったしだい。
Posted by 蕩尽亭 at 2004年03月26日 19:35
ありゃ。長い旅行に出て帰ってみると、蕩尽亭さんからコメントをいただいていて、うれしい。(生まれて初めてのインターネットコメント)「黙契社会」とは言いえて妙、ほんとうにそうですね。別の言い方をすると自明性、即自性の中にこそ、あるいは無意識の欲望のなかにこそ、自分たちの枠組や流れがあるのであって、それを省みないで、別のところ芝居をやっていい気になっているのは、おかしい/あぶない。日本の場合は、その無意識がきわめて共同的にできているようで、みんなやっているとそれでいいみたいになっている。これはどうにも、馬脚があらわれ始めている。やはり「解釈の臨界」ですね。しかしそれも認めないなら、どうなるのだろう。ずぶずぶ嵌りっぱなしになるのか、自滅するのか。やはり、歴史の審判が下るのかも。以前は「神風」が吹いてまた黙契の繭の中に入っていたのだが、もうそうはいかないところに出てきたということでしょうか。
Posted by kuro at 2004年04月05日 07:36