賄賂というものは、近代人が非難するほど、「悪い」ものか、という疑問をぼくは持ってきた。もちろん悪代官風の賄賂や、キックバックが「よい」というのではない。そうではなく、賄賂の類が、社会的なある制度になっていて、それによって、経済的な利潤がプールされたりフィードバックする、あるいは何かを保証するなど、一種の合理的機能も何ほどかあるのではないか、そんな側面も推測されるからだ。
たとえば、現在のような学校制度に保護されていない昔の教師は、生徒や周囲からの「束修」(付け届け)によって生活していた。それは羞じることではなかった。まあそれは賄賂というべきではなく、喜捨というか贈与というべきだろう。だが、一般に何かを人にしてくれと頼む際に、(特にそのポジションがはっきり決まっていないとかすることに流動性があったりする場合は)、「心付け」を個人的に渡すことはかつてはよくあった。ぼくの子供のころ、引っ越しのお兄さんに親が(支払いとは別に)ちょっとお金を渡して「よろしくね」と言ったり、宿の仲居さんに大人がちょっと百円札?!か何かを渡しているのを見たことがある。そういう「心付け」のような金品の流れは、何らかの仕事や協業を成り立たせるための仕組となっていることもあったようだ。ただ、その必要の度が甚だしかったり、それで特定の誰かが特に贔屓される、などといったことになれば、問題だろう。また、すでに十分な給与を他からもらっており、いわば満たされているのに、なおかつ「束修」や「心付け」を得る/得ようとするならば、それはおかしい。
現代でも、第三世界では、公務員だと思っている人から事を処理するときに軽く「ゆすられ」、お金を渡すことも少なくない。それはむろん賄賂といえるだろう。だが、ある程度社会的に制度化している面もある。それが権力を肥大させる面もむろんあるが、それが無ければ貧しい役人は食えない、あるいはそれでよりたくさんの人が食べている、などといった側面もある。そういう支払いを困った人から取るのは非道といえるが、金持ちの余所者から取るのは、個人的にはともかく全体としてはささやかな差別の是正であって、公正であり、それを払うのはnoblesse oblidge?かもしれない。(とは言え、それも、小さいとはすでに利権を持ったものがそれを「募る」もので、より貧しい者に対しては結局収奪になる可能性は大いにあるだろうが──)。
チップについてはどうだろうか。これはサービスを払った「後で」渡す場合が多いが、その「前に」渡す場合もある。日本でよくあるように、店が従業員を全体として管理している場合はチップは無くなる(ないしチップ自体が回収される)が、しかし、店を場所にして、個々人が営業しているのだと考えれば、チップはあって当然である。そして、もしも顧客とサービスする人との間の需給関係=権力関係において、後者が強いようであれば、「チップ」は「渡し金」になっていくだろう。
こう考えてみると、「賄賂」のように見えるものが、どこまでが不正であるかを(まずはその当の社会のあり方に照らして)考えることが必要である。また、かりにそれが当該社会にとっても不当だと感じられることがあるにしても、それを規制するのみならず置き換える制度を準備しようとしないで、ただ倫理的に批判するのでは、(まだそれが妥当性をもつ社会的基礎が残っている可能性があるから)批判として事柄に届いていないことになる。主観的倫理に帰着するだけでは未解決の部分があるからだ。だから、自分が「付け届け不要」の制度のうちにすでに居るからといって、自分はクリーンで、他がダーティーだとも言えない。武士は食わねど高楊枝は立派といえようが、制度的に十分食えている者が、純粋のきわめて廉価な贈与を受け取らないと突っ張ることは、じつは当該の制度への防衛的な立てこもりであることさえありうる。
といったことを考えていたのだが、いずれにせよ、金力・権力を公共的な制度によって担保したり批判的に吟味したりする制度がない社会においても、やはり「賄賂」と「お礼」「正当な依頼金」の類との〈区別〉(あるいは適正価格というか)はどこかで(曖昧であれ)線引きがあったはずである。そのことはさらに考える必要がある。賄賂のことを、protection moneyというが、所場代・みかじめ料とか、保険料みたいな意味があるようだ。税は、社会的にはもともとprotection moneyから生成したのではないのか。
また、上のみた例をみてもわかるように、賄賂の問題はあきらかに権力の形成と(その前であれ後であれ)連関しており、それが文字どおり賄賂的なものになるかそうではないものとなるかは、その支配が「公」的か「公共」的かといった問題にも関わってくる。
公共機関が現在ほど成立せずその支配が完全ではない場合を考えてみる。そこにはたいてい人々の仕事を守ってくれたり、よく按配してくれる、よい親分さんと悪い親分さんとがいるはずである。鬼平犯科帳で長谷川平蔵はしばしば「過分なもの」を受け取ったりする。だが、それはいずれ仕事にとって有益なものに転化され、鬼平が一人遊びに使っている訳ではない、という了解があって、読者はそれにまったく納得している。これに対して、「悪い親分」は何をしているのか。たぶん簡単に言えば、「余計に/不当に溜め込んでいる」のである。ということは、そこでは利益の互酬的な循環がうまく回らずに、不当に吸い上げられるようなことになっているのだと言えよう。言い換えれば、そこにはvicious circleが生まれているのである。
もちろん、vicious circleの問題は、ある個別ポイントについてだけでなく、それがずっと複数連関して構造になっているのだろうし、また、あるcircle内部では、きわめてよろしく公正に行われていて、まったくviciousではない、しかし、その外との関連を見ると、「溜め込んでいる」というようなこともある。
たとえば、日本近代の国民国家システムなどは、内部的には比較的浄化したと言える方だろうが、対外的にクリーンかどうかは大いに問題である。西欧の「民主主義」と呼ばれるものも、しばしば植民地的収奪に基づいている。とすれば、それらも、賄賂と収奪で溜め込んだ親分や子分たちが、自分たちの家族や親族の中でいい家を立ててコミュニティーを作ったようなものだとも言える。
早い話、外から見るからviciousなのであって、vicious circleであるものも内から見ればvirtuousであるかもしれない。内外が裏腹に反比例するなら、外から見てよりviciousであるほど、内においてはよりいっそうvirtuousである。だから、本当にviciousかvirtuousかは、内外を通約する地平を考えないと何とも言えないのである。が、そうであるゆえに、翻って、virtuousは必ずviciousを伴い、またそうであり続ける、とも必ずしも言えない、ということになる。たとえば、ある内部的なvirtuousが、外部にviciousを伴わない場合もあるかもしれないし、またたとえ伴っていても、そのviciousを食い破って、virtuousを外にも広げる、などということもあるかもしれない。これは、いわば「善意の輪が広がる」例である。孟子がよく説く非戦論や仁義論は、その類のものを喚起しようとしているのだと言える。
ぼく自身の感覚はというと、賄賂はもちろん個別な贈与のやりとりが周流することも、あまり好きではない。お祝いやお礼として、大っぴらな場所で、何かというと花束をやろうとする日本の習慣もぼくは好きではない。こういうのは、virtuousなものが広がっているというより、私的なものが流出している感じがする。そしてそれはたいてい、viciousなものをそれで見えなくしているような気がするのだ。贈与というものは大事だと思うが、それは、何かそれぞれの一回性を含み、そのことによって何か普遍的なものに繋がるようなものがほしいような気がする。そうでなければ、やり取りはお互いがシンプルに生きていけるだけで十分だ。
以上の賄賂問題ともうひとつパラレルと思われのは、暴力の問題である。賄賂自体は「金力」だが、たいていそこには「腕力」が伴っているものである。つまり、「悪い親分」は、暴力・権力についても、vicious circleを作っているだろうと考えられる。この問題は、むろん公共性の問題と関連がある。これについても継続して考える必要がある。
ある法哲学者の人と話していたら、賄賂研究というのも(事実のみならず理論として)ちゃんとあると教えられた。そのあたりももっと知りたい。金力のvicious circleの「輪」の成立をはっきりさせ、それを解くことは、「暴力」における同様の課題にもつながっているはずだ。
