「歴史認識」の問題がしばしば政治問題になっている。歴史をめぐって「認識されるもの」のうちには、むろん資料にもとづき物理的にも特定できる俗にいう客観性を帯びたものも(ある程度は)ある。それはそれで、事柄をとらえ解きほぐすことの中からはっきりしてくる。しかし、どんな事柄に関心を注ぐか、またその事柄をどんな意味をもつものとして捉えるかについては、解釈の問題になる。
そうした「意味的なもの」は認識者の関心・選択・読みによって生成してくる。またそれは(関心ということに含まれてくることだが)「将来に投げ掛けられる」ものでもある。つまりその「意味的なもの」は、たんに所与のものを受け止めたり・切り取ったりして現れるものであるのみならず、所与のものと結び付いてあたらしい事実の地平を構成するものでもある。そうした「意味のダイナミクス」は、自然科学的な認識でも、そもそも対象の選択や理論の適用においてありが、それが技術と結び付いたプロジェクトのうちにあるとき、その客観性はそれとしてあるようであっても、それはまさに人間的関心と実践に囲繞され・支えられているのだと言える。
人文社会関係の認識の場合は、事象は文字通り人間的なものであって、そこに意味が縦横に働き合いかつ重層するがゆえに、それが「意味的なもの」であることはより顕著であり、自然科学のように媒介的ではない。とりわけ、「歴史」は、その意味の蓄積や交替、将来への投げ掛けに関わるがゆえに、その意味はより「深く」根本的だといえる。ただし、歴史においては、(科学のように)人が「それを対象的に客観視するがゆえに」背後・却下の実践的意味が見えなくなるという機制よりも、人が「それを自ら生きるがゆえに」そこに含意された実践的意味が見えなくなるという機制が働くように思える。
当座の脈絡以上の意味の動きがとらえ得なくなる機制が何であるにせよ、もとより、「知を知のために」追求すべく政治・経済等の制約からある程度分離された(大学を始めとする)者が、その「価値自由」なスタンスによってそうした「客観性」を見出す可能性と義務をもつということはある程度言わねばならない。にもかかわらず、そうした「自由な」場や主体自身が、(そうした自由を求めるがゆえにまた)様々な権力や金力の時代社会個人的な関心によって影響されうることもやはり明らかである。「客観性」の背後のこうした関心の干渉は、ちょうど分析心理学などで理性的な意識の背後の意識無意識裡の欲求を自覚することとも似て、批判的な注意と分析が必要である。
先に述べたように、実践的な「意味」の関与する度が「歴史」においてとりわけ大きいというのは、歴史が意味的なものが縦横かつ重層的に関わる人間的な営みのなかでも、意味の諸文脈を「たばねるような流れ」に関わるからだ。だれでも自分を位置づけようとするとき自分の来し方・行く末を考えたくなるものだが、集団もそうである。歴史という来歴の語りは、人々の生やその倫理を意味づけるカテゴリーになるような時間性であり、にもかかわらず、それは当然視され、改めて気づかぬように生きられさえする前提的な流れである。だから、それがそもそもどうであるかという問いが起こると、重大事にならざるを得ない。その「どうであるか」はたんに純然たる事実問題であるだけでなく、倫理問題にたいてい深くかかわっている。
状況的にいうと、現在、歴史認識が問題にされることになったのは、かつて20世紀および冷戦下、当然であると思っていた世界の見え方が、冷戦後に、批判的に対象化され始めたからだ。そこでは、従来のものの見え方・生き方が、一方で、国民国家の枠組みによって制約されていたことがわかり始め、他方で、国家の枠組を越えて客観的・普遍的などと信じられていた認識枠(たとえばマルクス主義、毛沢東主義、民衆史観何であれ)も、じつはバイアス含みの制度として、ひとへの支配だったことがわかってきたからである。両者のどちらであるにせよ、それらは、戦後の、広くいって20世紀の、人々の「客観」というか、それを押し出す「実践」的価値に、決定的な作用をもたらしていた。それが相対化され始めた。そこに、従来雌伏していたものや、反動作用を帯びたものや、いろいろ現れだして来て、一種の歴史認識の覇権をめぐる争いのような状況も現出してきた。
むろんそうした闘争は従来からいろいろあったものではあるが、現在のものは、明らかに大きな時代的エポックの変化と関わって生まれている。それはあたかもかつてソフィストや百家が言論の基準となるヘゲモニーを争奪したかの時代に似て──というほど結果的に意味があればいいが──、そこには(時代変化のアクセレータでもある)人間における知のメディア的秩序の変化が相関わっている。ソフィストや百家の時代は、オラリティーからリテラシーの帝国への変化だったが、現在は、何だろうか。情報化にもとづくメディア的変化があり、それを背景に新たな帝国や生活世界が湧出しようとしているにちがいない、とぼくには思える。
以下、次のような問題についてふれるつもり:
・しこり・神話作用
・対抗的共犯関係
・複合的な認識と、智恵
・共感・反感、正義
・プロセスとしての歴史的理性
・歴史における智恵と理性
・子供の認識、おとなの認識
・認識が無理であること、無感覚・無知であることの原因
・二人称的認識と三人称的認識
(続)
