人称(person)を言語というより人間のあり方として考えるとき、「二人称」「三人称」「非人称」の違いはどう考えられるだろうか。
ひとつは、自己からの親近と疎遠でとらえることができるようだ。(「親」という概念はもともと身に密着しているとか身みずからという意味で、そこから引いては仲がいいという意味ももつ。もともと親=愛であるわけではない。だからこそ、親しくても憎んでいる、ということがありうるのだ。そのあたり不理解もあるので一言。) もうひとつは、対面性(向かい合っている、一対一である)と第三者性でとらえることができると思う。
この両者は切り取り方がちがうが、しかし繋がってもいる。対面性が頻繁であるときに、より親近するのであり、第三者性がつねであるときに、より疎遠である。当然、前者が「二人称」、後者が「三人称」になっていく。さらには、この第三者性と疎遠の彼方にまったくの第三者・疎遠なものとして「非人称」を考えることができる。
ただし、そのような「まったくの疎遠者」ともいうべきものが、果たして古代や中世にありえたのか、ぼくにはわからない。いや(宇宙が閉鎖系である限り)それは無かったのではないか、と思う。いや無かったともいえず、有るならば、純粋な物質ともいうべきものか、それとも無限なのだろう。が、そうだとしても、人はその背後にしばしば何らかの「人称」を感得していたのではあるまいか。言語にもどるならば、itは非人称か無人称か知らないが、それは超越者とつなげられてくるし、また「物」は、物の怪の「もの」でもある。
だが、そうした人称が剥落したときに、おそらく本当の?「非人称」が現れたといえるだろう。が、それにしても、そうした非人称を、(ポストモダン的なシステムによって給餌された現代人の)人称忘却の姿としてみることは可能である。少なくとも、生活世界は人称的世界であり、これを非人称的世界だと見てしまうのは、逆立ちしている。が、この逆立ちが現代の必然的状況なのだ。
