2004年03月06日

フランス文化・文学に関わるひとびと

フランス関係の先生のお別れパーティーに呼ばれて出た。こじんまりして瀟洒な住宅風のレストランで、おいしい料理・酒菓が出て、ピアノの背景演奏がポロンポロンとあり、気の利いたスピーチがたくさんあり、多くの花束が行き交った。

終わってレストランを出てみると、一緒に帰ろうという人から、ぼくの片方の靴下がズボンを噛んで、ニッカボッカみたいになっているのを注意された。「山から降りて来たみたいだね」と。 すると、この宴のあいだ中、いや今朝からずっと、ぼくはこうして生きていたのだな。

宴の絢爛豪華というか、いや、派手過ぎないように適度に美しくまとめられた趣味のよさには驚いた。みな「いい服」を着ていた。まぎれなく一種の文化的な「共同体」があるなあ、と思った。アジアの金の無い留学生ばかりと付き合って、彼らの心や体がおしつぶされそうだったり、そこを勝ち誇ろうとしたりそねんだり、それを乗り越えようと格闘しているその気分といつもつきあっているぼくには、とてもおどろきだった。照明の下のその空間を見るときの気分は、マッチ売りの少女というか、これは何なのだろう、と思ってみると、ああそうか、宗主国文化に対する植民地民の感情が、ぼくがそこで感じたものに少し似ているのかもしれない。あるいは、階級文化に対する下民の気分みたいな。。。

とはいえ、その宗主国文化・階級文化も、いまや多様性をもち、ぼくなどもそこに入ることが出来るようになったわけだ。だいいち、その先生は、奴隷や植民地にかかわる文学問題を避けることなく扱った人なのだ。そこにある「美」には、パターナリズムかマターナリズムかわからないが一種の愛が含まれていることもたしかだ。しかし、それにしても、学生たちが盛装して行儀よく振舞っているにはおどろいた。こういうことがあるのか。

振り返って思うと、少年期いらい大人になっても、ぼくは、思想や理論に関心があっても、儀礼や社交というものに、そういうものにまつわる美にも一切関心が無かった。お祭り(縁日)や礼拝の類は好きだったが。。付き合いのマナーや世界を、親からも全然教えられなかった。20代になって初めて友人の結婚式というものに出たとき、それは高輪プリンスホテルだったが、背広を着ていくことまでは思いついたが、お祝儀を持っていくことには一向に思い当たらなかった。そして用事があったので、早めに退席したのだった(いま思えば失礼してわるかった)。こうした自分の性向・ハビトゥスは、その後だいぶ長い間、ぼくが文学よりは哲学が、文学の中でも小説よりは詩がすきだったとか、宗教においても、密教よりは禅が好きだったといったこととも、関係があるようだ。

ともかく、そうしたぼくは、その宴に「フランス」関係者の気風を感じたのだった。だが、フランス文化といってもさまざまだろう。中江兆民が触れたものも、九鬼周造、永井荷風や藤田嗣次などがふれたものもあるだろう。遠藤周作は翻ってああなってしまった。
彼らはいったい何を感じていたのか。

そもそも、それはフランス文化なのか。それがフランスと「関係がある」ことはちがいない。だが、それがはたしてフランス(文化)「である」か「でない」かといった遡及に入りこむことには意味がない。実際、それかあらぬか、主賓は着物(和服)を着ていたのだ。だとすると、そこにあるのは文化的価値の産出をめぐる人の志向、その差異や同化の力学であり、それを生きることの意味だというほかはない。そこに、しかし、いろんな色調がある。フランスとはその志向され望まれる或る色調だ。

萩原朔太郎は「フランスに行きたしと思へども フランスはあまりに遠し。せめて新しき背広を着て きままなる旅に出てみん」とうたった。それが「遠い」(自分はそれではない、自分はそこにはいない)と感じる人、「近い」(自分はそれである、自分はそこにいる)と感じる人。──が、いずれであっても、宴には時間があり、また人生にも時間がある。その「遠い」「近い」の距離も、やはり時間のうちにある。フランスであろうとなかろうと、すべて「ひとの世」は時間をもつ。



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