2004年03月06日

いのちと命

論語に有名な「五十にして天命を知る」(五十而知天命)という言葉がある〔為政篇〕。
「命」を「天命」というのは、当然、儒教的というか、天の言説との関連づけがあるわけだが、しかし、そもそもそこで「命」と呼ばれているものは何なのだろうか。

思うに、「命」の観念の根には、日本語にすれば「いのち」ともいうべきものの感得があるようだ。それが漢字では「命」にあたっているといってもよい(少なくとも日本では)。ただ、この点は、漢字としての「命」をもっと調べなければいけない。が、いまはそこに入らないで、まず、命の基礎=いのちとしておき、「いのち」と「命」について考えてみる。

「いのち」とは、何らかの存在が、それあって生きているもの、生きているといえる根本の状態・条件・要素である。しかし問題は、生きていると「いえる」という、そのいえるということである。つまり、何を「いのち」と感得するかは、じつはいろんなとらえ方や層がある。そしてそれは多分に文化的・言語的に、そしてまた個人的にとらえられるものだ。

たとえば、端的な例をとると、脳死云々という議論も、現代科学の側からの「いのち」の定義である。ただ、その定義・線引きがどうであれ、ぼくらはたいていは、もっと「広がりのあるいのち」をもっており、それを即自的に「内側から生きて」いる。
とはいえ、「これがいのちだ」という定義やそれに結びついた制度は、その内部の即自性に対していずれ「外側から」つよく跳ね返ってくる。そして、それは「内側から」のものとなる。そうしてぼくらは、しばしば、何らかのさまざまな定義によって、自分たちのいのちを縮めたり広げたり、強めたり弱めたり、色づけたりしている。あるいは、そのような外からの内面化に抵抗し、そのことが自分のいのちに新たなフェーズを創り出すこともある。

いずれにせよ、いのちの内部と外部は、(相手を己に)「巻き込み」(involove)あるいは(相手に己を)「具現」(represent)し、そのことでいのちのあり方を「繰り込んで」(renormalize)いく。そのいのちの相互作用的な生成において、内部と外部、鶏が先か卵が先か、たどれば判らない。が、どちらにせよ、まずぼくらにあるのは、個々の存在としての自分たちの、色調・気分・衝動・行動などを含み・帯びた生命状態である。それをぼくらはまず「いのち」と感得している。そのようにいのちをあるまとまった「自己」の組織として先取しているというその限りにおいて、いのちが比ゆ的にいえば「卵」のように表象される必然性はある。これは内部性ということを繰り返し言っているに過ぎないが。。とはいえ、その「卵」はまた「鶏」となり、次の「卵」をうむ。

上にいのちの外部について定義・制度、そして相互作用ということをいった。それは空間的な問題だけではない。いまも述べたように、いのちは過去からの継承によってそれとして現れ、それが次に継がれる。だから、その内部も当然、先天的な定義や制度をもっている。いのちには縦横にいろんなものが手渡されているのだ。ただし、外部=定義・制度とだけいうと、まちがってしまう。外部は定義・制度をもっているが、しかしそれ自身、やはり先立ってまた内部なのだ。こうして、いのちはまずいのちと、自己は自己と働き合っている。

「いのち」の即自性に立ち戻ってみると、そこには内的外的な活発さやら停滞やらがあり、蓄積や閉塞や目的に向かっての動き等々がある。それは、エネルギー論的・力学的にとらえうる面があり、実際、フロイトはそのようなものとしてとらえたといえよう。フロイトだけではない。仏教の「業」論も、フロイトと図式のちがいはあれ、やはり、いのちの流れや蓄積についての議論だということができる。

こうして「いのち」は、人間の背後や過去を背負いさらに将来に向けてあり、衝動のごときものからもっと価値的に昇華されたものまで、生理的なものから文化的・倫理的に定義されたものまで、考えられる。また、仏教の「共業」という思想にみられるように、いのちはある程度個的なものであっても、それがまた集合的なものに、何らかの形でつながっていることが少なくない。もとより、現代では個人の「いのち」はただ「私」であり、あとは制度的言語やその時空的連関だけがあるかのように表象されていることが多い。しかし、そのような「私的なもの」といういのちの定義自体、じつは近代文化の産物だといえる。

とはいえ、個の側からとらえるならいっそう、類的にとらえる際であっても、「いのち」にはある「活発さ」や「充実」があり──したがってそこに価値をおび──、またその時間性をおびた・空間性をおびた「限界」がある。この点については、「いのち」はあまり概念化されていないが、「命」については古来いろんな議論がある。自分なりに整理すれば、「命」論は、「生命」「運命」「使命」の三つぐらいに分けて考えればどうか、と考えている。

言語的・人為的な性質を帯び、また時間的空間的な刻印をとりわけつよいのは、「使命」である。「使命」をひとはどんなときに感じるだろうか。たぶんそれは、それが誰かからの「命」──このとき、命とは、誰かからの期待を帯びた指示・メッセイジ(mandate)である──であり、また誰かへの「命」であり、そして、それが時間的空間的な限界や危機において意識されている場合である。

最初の「五十にして天命を知る」に戻ると、この天命は、「運命」でもあろうが、重心はおそらくは「使命」なのだろう。その内容は、儒教的なものとして、あきらかに政治的・倫理的なものであるにちがいない。それはおそらく、「人々のために何々をする」といったことだろう。またそれは「生命」の限界とも関連がある。つまり、死が何らかの形で意識されるときに、ひとはいっそうこうした「命」を感じる。それはつよくいえば一種終末論的な意識のような面がある。

このあたりのことは、ぼくも50を過ぎたから、ほんとのところ、感じるようになった。この切迫感のような定まったような感じは、40台のときには感じなかったものだ。40代のときには、たしかに自分が前に進もうとし、進めるような感じだったが、もっと何だかんだとあちこちに動くもの・定まらぬものが自分の中にあった。これが「四十にして惑わず」だろうか。それにしても、もう少し早めに天命を知っていたら、と思うけれど。。。しかしそれも「運命」か。いずれにせよ、この限界とともに浮かび上がる「命」は、あきらかに他者との関連を帯びている。

先に自分自身で「考えること」にいのちがある、と述べた。それは、Life is short, Art is long.というときの、Artの問題でもあるが、それは、端的な意味でのlifeが、しかしじつは人の個的なわざを介して別の類的ないのちに転換することだといえよう。その内容を、孔子は「命」といい、ギリシア人は「イデア」と呼んだのではないだろうか。

もうひとついえるのは、上のような「いのち」の動きは、古来の「幸福」(eudaimonia)につながっているということだ。逆にいうと、幸福論は、いのち(生命)の論を前提している。それについてはまた別個に考えたい。

さらに展開する必要があるのは、先にもふれた「生まれる」「生む」ということ、そして、鉱物・動物・植物・人間、そして機械といった従来の思想で考えられた存在のヒエラルキアのこと。西田幾多郎は、「論理と生命」について書いていたが、諸存在者について述べていたっけ? いや述べていないはずはない。ともあれ現在の哲学は、生命、存在者のカテゴリー、そして父・母・子・・・・・・といった基本的なことについて、還元されたカテゴリーによってなる論理空間に投射するばかりで、認識力を喪失している。

(今回は、思考が先走ってしまったようだ。「思うて学ばざれば危うし」というべきか。)




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