人称という問題を考えている。人称とはpersonの訳として、江戸時代末期の蘭語学で使われ始めた。それは「言語としての人称」だが、その背後には「事態としての人称」がある。その意味をもっと考える必要がある。
生命倫理でパーソン論というときは、人間を人間と認め、そう認められない人体や動物を差異化する人間特定論を意味している。そのように、personの概念は、少なくとも現代のそのとらえ方は異様に偏狭である。しかし、人称は、もっとひろい縁暈をもち、そして「非人称的なもの」もまた、一筋縄ではいかない豊かさがある。
人称は、そしてpersonも、またそこに受肉している自我や自己も、近代では、在り方を極度に単純化され、ただ論理的実体か機能かのように捉えられてきた。それは、世界を自然科学の界面に投射するためには適当だし妥当性もあった。しかし、かといって、それを生活世界における通常の人間による認知と重ねたり、それと置き換えたりしてしまうと、そこには一種「統合失調症」的な時空がつくられてくる。
その点を適切に批判し、科学の科学性と生活の生活性をきちんと両立させるように、世界経験の健全性を再構築しなければならない。健全性とは、社会秩序を基準にしての「正常」という意味ではなく、また五体満足か否かということではなく、ひとの心身の働きのホメスタシスやリズムや生成、様々な他者とのコミュニケーション能力が担保されているという意味だ。やすらかに育っている草木や花、穏やかななかで溌剌とした動物を見ると(逆にその条件を失わされた迫害された生き物を見ると)、いのちの健全さということの意味が、そしてそれを畏敬するということの意味がわかる。
