2004年05月24日

正しさや善さの述べ方

昨晩午後11時からの『ニュースJAPAN』(フジTV)を見ていたら、アメリカ軍がイラクの結婚式を誤爆して50人ほどの人が死んだという事件を伝え、これをアメリカ軍は否定しているが、イラクではまったくこれは事実で本当にひどいという反応だと、イラク側の映像もたどりながら報道していた。ぼくは、どうもこれはイラク民のいうことの方が本当らしいなあ、と思って視た。

が、びっくりしたのは、そのあとキャスター(松本方哉)が、「もしもこれが本当なら、アラブ社会の批判が高まりそうです」と述べたことである。喫驚したのは、「もしもこれが本当なら」という仮定法を付けたという点ではない。仮定法はたしかに完全な信憑性が取れず議論が分かれているのだから、あっていいとも言えよう。しかし、ひどい映像を見たあとで、仮定法を付けながらなお、「アラブ社会の批判が高まりそう」という人ごとみたいな言い方をぺろっとしたことである。

ちゃんとしたキャスターなのなら、「もしもこれが本当なら、アメリカ軍の行動は正しいとは言えません。……アラブ社会の批判も高まるでしょう」となぜ言えないのだろうか。つまり、なぜ、自分自身の判断を一言も喋ろうとせず、それを避けて、「物事の動き」みたいな言い方をするのだろうか。もちろん、これは言い方自体としてはその反対に、「もしもこれが虚偽なら、アメリカ軍の行動は悪くはありません」という言い方でもいいのである。つまり、そもそも仮定法で喋っているわけだから、その条件節が逆であるなら、それに応じて、アメリカ軍を肯定するならしてもいい。しかしこのキャスターの語りは、そのどちらにせよ、自分の判断をまったく避けて事を語ろうとしている。まるで《超然たる奴隷》ともいうべき言い方である。

このことは、言い方の問題ではあるが、さらにもちろん次の実践的な問題にすぐつながる。もし誤爆じゃなくテロリスト攻撃だったとしたら、アメリカ軍はそりゃそうだ、というだけのことである。しかし、もし誤爆だったならば、これはとんでもないことだ。それによって50人の人が死んで血まみれになり瓦礫の下に埋もれたのだから。しかも、ニュースの中身は、アメリカの誤爆らしい、というニュアンスが強かった。そういうことが先に見えていても、「アラブ社会の反発が強まるでしょう」だろうか。まったく、このおじさんがツルッとした顔をして人の家の火事みたいな言い方をするのは、どこか問題があるのじゃないかと感じた。これは傍観的なのか、アメリカに逆らいたくないのか。客観主義を取りたいのか長い物に巻き込まれたいのか。おそらく両方ではないか。

ぼくは、どうでもいいことにこだわりすぎとも思われるかも知れない。しかし──というか、そのとおりというべきか──これはぼく自身の中では、子どものときに、近くの子どもがその親から「そういうことをすると警察がくるよ」と言われているのを聞いたとき以来の不審につながる。「そういうことをすると、おじさんが怒るよ」「世間が騒ぐよ」……そういう言い方を少年期以来現在まで何万回聞いたかわからないが、これが変だという気持が消えない。というのは、これは、正不正、善し悪しを何も定義しないで、人の反応に帰している。もちろん他者の意向をよく忖度するのはいいことだろうが、だからといっていつも正不正を語らないままにして、人々の反応にばかり帰するのは愚であり、ときには不正に陥るのではないだろうか。

警察が来るから悪いのであれば、警察が来なければ良いことになってしまう。あるいは警察が来るなら、良いことでも悪いことになってしまう。世間が騒ぐから悪いのであれば、世間がもてはやすものは善いものになる。ということは、「人気者(物)は善だ」「有力者は善だ」ということになる。(あるいはその同じものが反転急に「悪だ」ということにもなる)。こういう思考でいいのだろうか。「そういうことをすると警察が来るよ」といって止めさせるぐらいなら、「警察が来るかもしれないし、いろいろあるかもしれないが、やりたいならやってごらん」といった方がよほどすっきりする。少なくとも先に他人に基準を委ねるよりは、自分自身で物事を確かめる道につながるだろう。

日本思想史上では、理義や正を「勢い」で定義する歴史家などがよくいる。そういう認識にときに妥当性があることもわかる。しかし、あんまりそういうことであれば、状況の認識を社会学的に述べたようであっても、じつは勝てば官軍的なご都合主義になったり、あるいは強者・弱者の権威主義になったりする。これはどうにもぼくには納得できない。少なくともそこに倫理的なトラップがありそうな感覚ぐらいもってほしい。

(トラックバックがIMIWOKURAUさんから入っている。「正しさの基準」「根拠」はどうなるか、とある。そのとおりだな。本文に続けて書くのは変だけど、その点をさらにここに書き続ける。。。)

では正しさ・よさの基準は何か。そうなると、多くの論者がこれまたいやになるほど思弁を展開している(解答を出すにせよ、出さないにせよ)。が、思うところ、人間が生活を健康で気持よく送ってそれぞれの人々のcapabilityを伸ばそうとすることに向けて、正は定義されるし、その否定に向けて不正は定義されるだろう。ただし、そのことは実は複雑性のうちにあるから、一義的には語れない。だから、「正義論」も生まれるわけである。ただし、これが複雑であるからといって、不可知論やたんなる規約論に帰することにはぼくは賛成できない。なぜなら、ささやかな生活世界を場にして考える限りは、事柄はそう複雑ではなく、生きているという人間の生の感覚や良識・美意識・コモンセンスによってだいたい定義できるはずである。そうである限り、複雑性を解きほぐす基礎はあるはずだからだ。
  
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2004年05月11日

菅と小泉の「徳性」

菅直人が民主党の代表を辞任した。一言、問題の頭出しをしておく(政治家敬称略)。

蕩尽さんが菅について「公人としての倫理にかかわる問題である。国民はまさにそこを見ている。公人としての政治家の倫理的・象徴的役割・・・・・・政治家というものがどんな仕事なのか、政治的ふるまいとは何を意味するのか、まるで考えたことがない。・・・・・・しょせん市民運動あがりと言わざるを得ない」と書いている。菅の政策的なところは問題にしてないし、かなり手厳しいが、菅の人間を問題にした点はかなり鋭く当たっている。詳しくは、http://www.mypress.jp/v2_writers/devenir/story/?story_id=399037
この「菅の勘違い」逆にいうと、菅がわかってない「倫理的・象徴的役割」とは何かを、ぼくなりにもう少し続けて考えてみたい。

ぼくは菅の政策的スタンス自体は、まったくすっきりしないとはいえ、小泉よりは判るところもあると思っていた。ただ、彼の「政治家としての人柄」については(個人としてはよく知らないが)、どうも釈然としなかった。鳩山の茫洋とした無責任さは、結果としてひどいことになりそうで、それよりはいいようにも少しは思った。しかし菅には何か足らない・違うなと思い、それが何かよく判らなかった。

去年の選挙に、妙に目を剥いた人相の悪いポスターを作ったので、何だろこりゃ、と思った(考えてみればこのあたりから問題があったのだ)。そのあと、党首対決で舌鋒に力みを入れているので、なるほど、(鳩山とちがって)「対決姿勢が必要」と思っているのだなと推測した。ただ、その後の、年金問題以後の菅の墓穴は、その「対決姿勢」のせいである。何か、辻本清美が、鈴木宗男を攻めているときはいいが、そのあとそれが墓穴になったのと似たようなものを、この人も持っている。というのは、政策では対決をしても、それは個人的な問題ではない、そして人間的なところでは信頼感が必要というようなところが、彼にはよく判らなかったのではないか。その攻めとは違うひろい公的な部分のような徳性については彼は自慢の?「笑顔」を引きつって作ってみせる以上には思い至らなかったのではないか。

「攻めの姿勢」というのは、党として・政策としてはあってもいい。しかし、政治家自身のあり方としては、通常、個々の攻めというのは、船でいうと駆逐艦か将棋でいうと香車みたいなもので、大艦というか「将」がすることではない。江角マキ子を呼べといって息巻いていたが、こういうのは手下にさせて、自分はうんまあそうかな、みたいな状態であってもいいはずだ。だのに、自分でやっているのは変である。これは、言い換えれば、彼には人が居ないということなのかもしれないが、さらに、古来政治家には「仁」が必要だといわれていたのだが、それが菅には無いということなのではないだろうか。政策的には仁があるのか無いのか知らないが、人柄的にはあきらかに仁が無い。たしかに市民運動的に「追求」をし、あとは体制と妥協をする、というスタンスでやってきたそのハビトゥスが抜けない感じだ。

対照的なのは小泉である。この人は政策的には不仁というべきだし、だいたい頓珍漢この上ない。外交政策なども詳しく書かないが、いい加減この上ないと思う。しかし、政策的・政治的レベルのイメージでは、ともかく「対決姿勢」「決断」を演出しおおせている。ところが注目すべきことに、彼は人柄的には、ぼくがテレビに映ったのを見たところでは、まったく空虚に威勢がいいにもかかわらず、個人攻撃の類や個人批判的な言を弄しているのを一度も見たことがない。誰のことも悪くいわず、まあ八方の幸せが大事でしょう、というような言い方をする。つまり、何か威勢はいいが、人にやさしいというか、少なくとも噛みつき犬ではなくて鷹揚みたいに感じさせる。無理にそう演じているとも思えず妙に板についている(たぶん政治家の子供だからだろう)。おそらくは結果倫理的には不仁な小泉が、国民的には支持される所以のひとつは、ここにもあるような気がする。

もし政権を与えて「結果的に」どちらがいいとは簡単にいえないようだ。また、こうした「菅の勘違い」と「小泉の勘所」が、墓穴になったり浮き輪になったりすること自体が政治的動きとしてはちょっと変な感じがする。しかしともかく、菅と小泉の人間的「徳性」のアイロニカルな対照性には興味ぶかい問題が含まれている。両方合わせて、日本の不幸というべきなのかもしれない。
(議論が未整理で途中だけれどひとまずここでストップ)

#ちなみに、トラックバックの表題が相手先で文字化けするのは迷惑かけてわるいが、どうしたら直るのだろう。
  
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2004年04月23日

「虜囚」「迫害」の主体とは

人質やその家族についての日本国内の反応について、この数日少し書いたけれど、また少し考えた。もし読んでいる人がいたら、またかと思って飽き飽きするだろうけれど、ご容赦。

蕩尽伝説氏の議論は、その後また展開があって教えられた。レヴィナスは、「他者の虜になること」のなかから、つまり他者を先立たせ・その捕囚として彷徨うことのなかから、(「存在すること」から出てくる「充実した主体」とはまた「別の仕方」での)主体が見出される、と論じているのだという。(以上のまとめは、伝言ゲームになっているので間違っているかもしれない。)
「存在すること」から出てくるある充実した主体というときに、レヴィナスは、ハイデガーを想定し、さらには、ヨーロッパ伝統の存在論の自同的な自己・実体的な自己みたいなものを考え、その権力作用を批判的にみているのだろう。またそういう存在・主体の方が、じつはまた虜囚なのだみたいな考えもあるかにも思える。

いずれにせよ、このレヴィナスの議論は、ユダヤ・キリスト教的な、ヘブライズム系の存在や価値の専横をひっくりがえす論理があるようで、面白いと同時に、それはそれでまた限界面やトラップがありそうである。蕩尽伝説氏が「ひどく貧乏くさくて自虐的……もっとも、人質・虜囚という問題の立て方はおもしろい」というのも同感できる。このうち、前者(貧乏くさくて自虐的)のところは、たぶんニーチェが(キリスト教についてだが)奴隷道徳だと言った、それにつながるような部分だともいえるかもしれない。

もちろんレヴィナスやレヴィナス主義者は、その限界を指摘されても、「そんな俗論には填らないよ」といって一種の高等論理を準備しているに違いない。が、そうやってひっくり返しの絶対領域みたいなものを設定すればするほど、その領域確保とセットになって、その批判者と、とてつもなく対抗しているようで、じつは奇妙な共犯関係が結果的・歴史的に生まれるような気がする。レヴィナス自身はともかくレヴィナス主義者は、少なく日本では、そうした社会性に盲目なことが多いように思える。それが、彼らが深刻な顔をしながら元気でいられるヒミツであると同時に、その能天気は無惨でもある。それはたぶん、「反対派」を余計に苛立たせるだろう。

いや、そんなことをとくに言いたいわけではなかった。言いたいのは、この存在と非存在、主体と虜囚といった問題にもっと考えてみるべきものがあるということだ。主体と非主体、勝ち誇る者と虐げられる者といったものの関係は、簡単ではない。よく言われることだが、主体は臣従、虐待する者は虐待される(された)者……といったその他いろいろな関係があったり内部転換があったりする。

人質だった人間を悪し様に言いたくなるというのは、いったいどういうことなのだろうか。人質だった者がたとえ高尚でないにしても。。。 このあたり、また論を続ける。

  
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2004年04月14日

「テロリスト」と「反発する現地民」の差

人質事件をめぐって、先の記事で、「テロ」という言葉を書いたけれど、しかし、ちゃんと見るならば、人質事件の「犯人」(武装組織)を、従来型の「テロリスト」と同様視しては、ことを見間違ってしまう。もっと見極めるべきだ。人質事件の「犯人」像について、間に立つ聖職者たちは、何度も彼らはファルージャの普通民だ、と言っている。つまり、いわゆるアルカイダ系等の「確信犯」や旧フセイン残党ではなく、これまで動いていなかった現地人で、それがあのように動いたのだと言える。

彼らは、アメリカ統治に(反感は持っていたかもしれないが必ずしも)動いていなかったのだろう。が、おそらくはファルージャのアメリカ攻撃を機に、これはひどい、たまらん、という危機感・破滅感とともに意を決して行動、外国人誘拐を梃子にアメリカおよび同盟国に抵抗しようとしたのだろう。それが、諸外国人を巻き込む行動になっている。だから、背後には、ファルージャを代表とするアメリカの市民虐殺等があり、これに対する現地民の反発、それを阻止したい気持があるはずだと思われる。そこになおもいろんな利害も絡み、それに伴う動きもあるもあるのだろうが──。しかしいずれにせよ、その動きを発動しているものは、アメリカの統治軍の行動であり、それに対する反発である。それが「盾に取る」行動に出させている。それをただ「テロ」と決めつけることはできない。

小泉首相は、人質事件に対して「テロに屈しない」と言った。また日本の一般の論調でも、ただ治安悪化とか、テロリスト跋扈とかいったに近い言い方が多い。が、それでは、彼らの実情の芯の部分にあるだろうものが見えなくなってしまう。「従来型のテロリスト」と「アメリカの攻撃という危機を背景に動き出したイラク民」とはゴッチャにはできない。だからこそ、その「テロリスト」呼ばわりが、むしろ怒りを生んで彼らに3人の解放を止めさせてしまったという説(聖職者談)もある(バクダット4月14日・共同通信)。

人質事件を起こしたのはイラク現地民のアメリカへの憤激であった。そうであるがゆえに、最初は、人質がアメリカと無関係であることを示すことで、解放されるチャンスがちょっとあった。しかし、今やそのタイミングは過ぎている。人質はアメリカと彼らとの関係にもう組み込まれてしまっている。とすれば、いまや事件は、根本的には、アメリカが攻撃など乱暴をやめて、少なくとも犯人=抵抗民たちが「アメリカも俺たちへの破壊・損害ばかりしているのではない」と思えるようにならない限り解決がないように思える。犯人=抵抗民たちがこういう盾に取るような行動を取らない済むような状況が現れることが必要になる。

アメリカ自身が自制しないなら、本当なら少なくとも日本政府はチェイニーに「あんたらが暴れるからこんなことになるんじゃないか、やめてくれ・無茶をするな」というべきである。けれども、たぶん「救助してくれ・情報教えてくれ」ぐらいしか言えてないだろう。ならば、市民的なチャンネルでアメリカを自制させられないものだろうか。public citizenにとって何が可能なのか考えさせられる。もちろん政権が変わるならば、一番確実な解決の道だろうが。

  
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