機械化あるいは人間の周囲を道具的な物で覆っていくという志向──それについては、オーウェル『1984年』のビッグブラザーなどと重なって、一種父性的な絶対権力による管理社会をイメージしがちである(この父性的な絶対権力というのが、オーウェル解釈としても妥当かどうかも一つ問題だが、いまは措いておく)。そのビッグブラザーは、ネオコンやブッシュ、ラムズフェルドといった人の顔を見ると納得しやすいが、それよりは、セーターを着たビル・ゲイツに相応しいのかもしれない。しかし、日本においては、ビル・ゲイツの顔すら消えている。管理するcomplex(複合体)というより、足腰を萎えさせるmatrix(母体)というべきかもしれない(とすればこれはパターナリズムというよりマターナリズムまたはパタマタナリズムとでもいうべきか)。ともあれ、ビッグブラザーなら、むしろ対抗しやすいとも言えるだろう。しかし、お節介でしかも目を光らせた母体的システムに対しては、それから自由になることにも、またその正しさその他を議論することにも、特有の難しさがある。荻野氏が「自動文明」と呼んでいるこの自動化・機械化・システム化された「パターナリズム」は、森岡正博『無痛文明』(トランスビュー、2003.10)での指摘にもつながっている。
ぼくも、「日本の現代社会では、このところ人間がだんだんシステムの繭に入ったみたいになっているな」と感じていた。よく若者の「引きこもり」をいうが、多かれ少なかれ程度や形はいろいろあるにせよ、「一億総引きこもり」みたいなところがある。永田町は永田町の、象牙の塔は象牙の塔の、霞ヶ関は霞ヶ関の、アカデミズムの「専門」は「専門」の、業界は業界の、会社の上司は上司の、平は平の、若者は若者の、中年は中年の、老人は老人の……。われわれは皆タコでありタコツボに住んでいる。そのタコツボ周辺をタコ網ならぬ「自動文明」「無痛文明」の組織がつなげて?くれている。(本当のタコがそんな存在なのかどうかは怪しい。これは比喩であることをタコに断わっておく)。
荻野氏は、その「生活の様々な局面での自動化」=「自動文明」を、「人間同士のコミュニケーションを堀り崩し、同時に自己責任、主体性、自立といった契機を蝕んでいく」ものと述べている。つまり、そういう自動化された道具や環境を「主体的な自己」の反対物だととらえ、前者に依存しない後者の復権を唱えているわけである(森岡氏の議論は複雑なのでまた別個に検討する)。ぼく自身は、半分ぐらいはそれに同意するが、じつはそういう主体的自己なるものがそもそも成り立つのか、と感じているところもある。だから、(荻野氏の文章でいうと)むしろその前半の「コミュニケーション」の部分をまず強調したい。そして「自然や他者との間のしっかりしたやり取りやコミュニケーションこそ大事だ。その中から互いの主体性や責任性が成り立っていくはずだ」というふうに考えたい。
道具や機械によって、人間のすることを置き換えていく、というのは、人間が有史以来やり続けてきたことでもある。しかし、当然、何かを他に委ねそれを自分でしなければ、その部分は人間から退縮していく。ヘーゲルが「主人と奴隷の弁証法」で述べたように、奴隷に仕事をしてもらう主人は、その果て、奴隷によって支配される存在になる。この場合でいうと、機械や物によって埋もれる人間は、じつは自分自身では何もできない存在になっていく。
が、そんなことは判っている。それでも、道具や機械は、人間の弱さを補ってくれるものだし、そのことによって、人間の従来抑圧されるほかなかった可能性を伸ばしたり、あたらしい人間の交わりが可能になることもあるだろう。またよい道具(の使い方)は、下手な道具や機械や社会やらによって退縮どころか破壊された生活や自然をむしろ存在させる可能性も逆にあたえる。だから、道具や機械の本末わきまえた人間的使い方こそ重要であり、その人間的な、つまり世界や自己・他者との対話的で仁智ある使用こそが、自然から生まれ言語や道具や観念を手にした人間の「教養」というものだろう(この「教養」はむろん、物知りという意味ではなく「自己形成」Bildungという意味である)。ところが、日本社会では、そういう展開が薄く、世間はシステム過剰(システム依存)で人々はますますタコになっている。これは、どうしてか。
これは結局は、明治近代以来の日本社会での「文明崇拝」みたいなものに関わるが、それは社会的には、極端な「公・私」分裂、「公・私二元」化の発展史につながっている。つまり、近代日本の文明キャッチアップ社会では、富と繁栄を与えることを黙契とする国家や企業がいわば親となって社会を「公」的に系列化し、そのパターナリズムに帰属するように「私」が方向づけられた。上位組織としての「公」は、社会的市民的自然的「公共性」を吸収・独占し、その残余として「私」が存在した。その公と私の間の、自然であれ地縁であれ血縁であれ、同業・同好団体であれ、教会・協会であれ、あらゆる自然的なものや中間集団やcommonsは解体されるか、残存しても自立性を失ってせいぜい国家・企業にもっぱら従属するものになった。
このようにして近代日本で、人々に準備し与えられる諸々の「システム」やそれにまつわる「グッズ」(モノ・商品)は、子どもが本当には成長しないために、その真に望むものとは違うものとして与えたいろいろな玩具の群れようなところがある。たしかにそれで生活は向上し便利になったようにみえるが、しかしそれが本当に「面白い」のか自分を「伸ばす」ものなのか。いや自己の心身の自然を破壊しこれとの繋がりをなくしてそれははたして「便利」ですらあるのか。高かろうと安かろうとどんなジャンルだろうと、そんなに「ブランド」を求め、そういう「格」に支配されてサイテーだと思わないのか。
日本の中にいると、そのことをあんまり何とも感じないが、一歩外国に出ると、いかに日本が公=公共であって、市民的な公共性がきわめて無いところであるか、孤立した個人が貧寒たるシステムによってつながれた場所であるかを実感する。そして序列化された奇妙な欺瞞的な玩具を与えられ、それに支配されて、驕ったり威張ったり恨んだりしている。それでも、というかそれだからこそ、みんな、何でもお上に期待し、商品に期待し、企業に期待し、有名性に、authenticとされるものに期待する。それ以外に為すすべが失われているのだ。
ただしこのような環境が、本当に「繭」なら、それでも、いいかもしれない。しかし、今や、その繭は枯れているし、幻想のなかにいるのでしかない。少なくともあと何年間かしたらこの繭は完全にザルのようになるだろう。お上によって「悪いようにはならないから付いてくるように」と(理性と感性の発揮と引き換えに)保証された無前提の理由である「富と繁栄と平和」(PHP?)は、じつは破綻していた。それが分かったことに現在の混乱の原因がある。昔は草もなびいていたが、今はなびかない。しかし、代わるハビトゥスは生まれていない。では、もう一度「繭」を作るか?──「よい子」「家族」「日本人」「ふれあい」こういった理念が筋違いだということは、はっきりしている。ましてITで教室や社会を「仲良く」? そんな教育や社会政策が誤謬であることは教育勅語が誤謬であるのと同じだ。では、「主体性」か?──うーん。どこにそれがあり/あったか。少なくとも従来の「卓越性」は、自己の力ではなく制度の力だったのではないか。
これをどうしたらいいか。この解答は、個々の仕方はともかく、筋道としては、ありふれているようだが、先の「自然や他者との間のしっかりしたやり取りやコミュニケーション……その中から互いの主体性や責任性」ということの延長上にしかない。蕩尽氏も「子ども時代に自然のなかで遊ばせることは決定的に大事……そのあれこれの体験が無意識のうちにその後の感覚や感受性が育つゆりかごになる。……ネット世界より自然のほうがはるかに複雑だ」と述べている(2004.6.5頃の掲示板)。こうしてぼくらは、「自然」へか、身近なまた地球上の、それ自身自然である「人間」へか、一歩を踏み出さねばならない。「智」「仁」「勇」をもってか、「真」「善」「美」を求めてか──。ともかく、そうした自然や生や聖に根ざしたものに歩を進めてこそ、システムはむしろ人間的なものとして用いられ、再定義できるものになるはずだ。このような意味では、人間は──というか日本社会の人間は、間柄や全体性によってというより、その外に立つことで実存(ex-sistere)しなければならないのだと思う。

無痛文明論
